クラシックコースを滑る (五色―沼尻スキーツア)             河上鐐治

昭和64年2月、吹雪の中を東京から来た山仲間4名と鉢森山の頂上に立った。鉢森山の中腹から麓にかけて、栗子スキー場として賑わっている。頂上には秩父宮殿下の登頂記念碑が建っていて、戦前は峠駅からのスキーコースとして知られていたが今はすっかり忘れ去られてしまった。、この記録が有名な板倉勝宣の古典的名著「山と雪の日記・冬の日記」に詳しい。ここから奥羽本線を隔てて吾妻を望んで、噂に聞いていた日本有数の五色―沼尻コースを滑りたいとの希望が出され、機会を見て実施することを約束した。
 五色スキー場はオーストラリア人、“オゴン・フォン・クラッツア”が初めてスキーを紹介し、明治44年日本では最初の民間スキー場としてオープンした。
明治13年に6皇族家の社交クラブとして六華クラブが設立され、冬の社交場としてクラブハウスが宗川旅館の隣に建設された。このようにして五色スキー場は大いに賑わったが、又五色温泉は吾妻スキーツアのベースとしても重宝され、有名な“ウインクラー”が明治44年に五色温泉を訪れ、大正5年頃から高湯、微湯へのツアコースが開拓され、この様子は前出の「山と雪の日記」に詳しい。
沼尻スキー場は大正9年早稲田大学スキー部の根拠地として盛んになった。この両基地を結ぶツアコースとして五色―沼尻コースが結ばれれ、吾妻におけるスキーツアが本格化した。沼尻からは横向温泉を経由し箕輪山の西麓から鬼面山の尾根続きの台地に取り着き、大峠(旧土湯峠)を越して幕温泉に到るもので、土湯トンネルができるまでは、冬季野地温泉に行くにこのコースが利用された。
さて約束の五色―沼尻スキーツアは平成5367日に行われた。メンバーは東京から6名、福島2名の一泊組と、日帰り組が吾妻山の会会員4名の計12名である。一泊は慶応山荘で翌朝の天候は曇りだがそんなに荒れにはならないようなので予定通り出発した。810分。
山荘からは登山道に戻り少し登って、大根森の末端の追分から右(大根森の北側)に回り込み、大根森の北斜面を家形小屋目指して滑り出した。(家形小屋は下方で下りになる)家形小屋の下で身支度を整え本格的ツアー出発となる。
 積雪は多く滑りやすい。最近は積雪が少なくブッシュが多く雪中薮こぎの状態であったが、今回は積雪は多く滑りやすい。ブッシュがなく開けたところを快適の飛ばし緑樹山荘(東海大学所有一般非開放)に到着した。1025分。軽く腹ごしらえしていると、後続チームと連絡が取れた。高湯スキー場の最終リフトの終点から緑樹山荘に向け一直線に進み、手前の尾根に出たところであった。暫くして林間から4名が滑り降りてきた。全員そろって1110分出発。雲が厚くなり見通しが悪くなってきた。
 このコースの指導標は「丸鉄板」と「五―沼」の鉄板打ち抜きの2種類であるが殆んど無くなり、一箇所だけ「五―沼」指導標を見つけた。
緑樹山荘からの下りは右手に開けた斜面があるのでブッシュを避けてこの斜面を下ったが、これだと下りすぎジークライト鉱山の下に出ると感じたので下降を留め登りなおして北に向った。このコースは尾根の麓を通るので沢が幾つか入り込んでいる。積雪が多いので小さな沢は埋まり楽に越せたが最後の大きな沢は何時もそうだが階段登行で苦労した。ここで昼食とする。1155分〜1220分。
 ガスはますます深く粒も大ききなってきた。高倉山の麓は風が強く笹原なので、何時もガラガラとクラストしているが今日は湿り雪であり、斜滑降で順調に進み最後の賽の河原へのシールをつけて登りにかかったが、ついに雨が降り出した。五色温泉への下りはべた雪に苦労したが全員無事宗川旅館に到着した。
 ここから板谷駅までは車道が出来たが、スキーを担い歩くのも能がないので旧道を滑ることにした。もうツアも終わりといい気分で滑っていったら最後に落とし穴が待っていた。吊り橋が落ちていて通行不能である。今され戻るわけにも行かないので、川を渡ることにした。水が入らないように靴の紐を締めなおし川辺に下りた。浅い所と向こう岸の上がられるところを選んで渡渉にかかった。吾妻山の会の1名は靴を濡らすのを嫌い飛び石伝いに渡ろうとしたが、危ぶんだ通り滑って川に転落、寒中水浴になってしまった。それでも何とか全員渡りきり崖をよじ登り、奥羽線の線路を横切ろうとしたら又一難。新幹線の開通で立ち入り禁止の柵が出来ていた。高さ約4メートル位でどこか切れているところが無いかと板谷駅に向って歩き出した。この先に鉄橋があり、そこまで渡られなければアウトである。幸い鉄橋の手前にようやく柵が2メートルくらいの低いところが在り、乗り越えることが出来た。線路は列車に遭わないように見張りを立て、一人ずつ足早に渡った。板谷駅に時間ぎりぎりに到着し、とにかく無事終了を祝った。山は変わらないが麓は全く変わってしまった。明治どころか、昭和も遠くになってしまった。昔を懐かしむだけである。教訓 古い人の言う事と、古い地図は信用するな。

 

 

沼尻-五色温泉コース標識

ツアー標識 

家形避難小屋 

里山植林地の現在         佐藤 守  

昨年11月に、総会前の観察会候補地に予定されていた狐郷山を下見に出かけた。残念ながら、登山道はアズマネザサに覆われ荒廃が進んでおり、そこでの観察会は諦めざるを得ないと判断した。代替地を見つけようと地図を頼りに周辺の里山を物色しているうちに「立子山」と書かれた案内プレートを見つけた。

期待を込めて散策路に入った。開かれた広い散策路周辺に散在する広葉樹を楽しみながら歩む。ほどなく道の両側に学校の卒業記念植林を告知した標柱と看板が現れた。左側の白い標柱には前面に「立子山中学校総合学習(ヒノキ)」側面に「平成18年5月24日」とある。植えられたヒノキは順調に生育していた。そこから少し登ったところにも「立子山小学校記念植樹」の白い標柱があり、そばに案内板が設置されていた。案内板には「舘の山植林事業、この事業は(社)福島県緑化推進委員会から緑の募金交付金の助成を受け、立子山小・中学生の自然観察学習の場作りを目的に、森林ボランテアの協力により実施されたものです。平成18年4月16日」と書かれていた。こちらの植林地には何が植栽されたのか不明だが一面クズとアキノキリンソウ畑と化していた。さらに登り、山頂の広場に出ると四阿(あずまや)が設置され、軒先には「立子(西館)学舎」と掘られた木製の重厚な案内板と駒米館(西館)に関する歴史を記載した説明板が掲示されていた。これによると、この一連の整備事業は福島県地域づくり総合支援事業として平成18年に実施されたらしい。平成18年といえば会報91号で紹介した鳩峰峠で高山の原生林を守る会が植林を始めた年と同年である。いずれの植林地も植林後、管理の手は入っていないが、鳩峰峠の方は植林された広葉樹は順調に生育しているのに対し、こちらは残念ながら「自然観察学習の場作り」には程遠い結果となっている。何故、このような対照的な結果となっているのかその原因を考えてみることは植林を参加者の単なる自己満足に終わらせることなく本来の目的である自然林の再生を達成する上で大切なことではないかと思う。

1993年(平成5年)の白神山地のユネスコ世界遺産指定をきっかけに植林ブームが全国を席巻し、環境税を徴収する自治体も多数に亘っている。あれから20年近く経過し、その植林地は現在どうなっているのか点検が必要ではないだろうか。東日本大震災を機に植林活動復活の兆しがみられるが、過去の植林の失敗を繰り返さないためには植林地周辺の自然環境に対する冷静な分析と植林地の長期的な点検計画の構築が必要である。

 

立子山里山(東館・西館・不亡園)整備事業福島県地域づくり総合支援事業

舘の山植林事業(立子山小校記念植樹)

 

ネームプレート

 

 

 

 

クズとアキノキリンソウ畑と化した植林地

立子山中学校記念植樹

センニンソウの種子 

 

鹿狼山から  
32 〜どんぐり育て隊〜    小幡 仁子

東日本大震災・大津波から4年が過ぎました。新地町では高台移転や災害公営住宅の建設が順調に進んだので、8地区あった応急仮設住宅を2地区に集約することになりました。空家率が7〜8割を越えたそうです。そういえば、仮設住宅の灯りが少なくなり、駐車場に車がないように思いました。入居率が低いとコミュニティの維持が難しくなり、防犯・防火の面でも心配があるそうです。我が家の近くにある仮設住宅は残ることになりました。そこはペットを飼っても良い住宅です。津波で家を失った方々だけでなく、放射能汚染からの避難をしている方も住んでいると聞きました。やがて全員が落ち着く先が決まれば仮設住宅は解体され、更地に戻ることになります。あと1、2年はかかるのでしょうか。集団移転の造成はすでに終わり、新しい家がたくさん建ち並んでいます。テレビのニュースでは高台移転の話がまとまらず、自宅の再建ができなかったり、人口流出が多くなったりした話を聞きます。4年も過ぎてもなお、先が見えない生活をするのは大変なことでしょう。
 
 さて、2月の広報では「どんぐり育て隊」の募集がありました。新地町や周辺で拾ったコナラやクヌギ、アラカシのどんぐりを苗木に育てて、育てた苗を釣師・埒浜防災緑地に植樹しようというプロジェクトです。今月、3月15日(日)はどんぐりの植え付けをする日でした。新地町役場復興推進課前駐車場に汚れてもいい格好で集合と書かれてありました。一人あたり20ポットで1ケースを基本とし、植えたどんぐりを自宅で15ヶ月育てて、来年6月に植樹になる計画です。この日は高山の自然を守る会の第138回自然観察会の日でもありました。残念ながら「どんぐり育て隊」の活動には参加できませんでした。広報には「どんぐりを育てると言っても、芽が出なかったり、海辺の厳しい環境のため枯れてしまったりとさまざまなハードルがつきものです。育てた苗木が全部大きく育つ訳ではないですが、みんなで育てる、私たちの防災緑地として、今後も見守っていただければと思います」と書いてありました。
 
 当会でも2002〜2008年の7カ年にわたって鳩峰峠の牧草地で植林を行いました。鳩峰牧場を元のブナ林に復帰させ、福島市の水源地を守り、野生動物の生息場所や移動空間を作るのが目的でした。会報「高山」91号(2014年12月発行)にはその鳩峰牧場に植林した樹木の成長の様子が掲載されています。
 12年前、みんなでマザーツリーの周辺にあったブナの芽生えやイタヤカエデ、ミズナラなどをポットに植えて育てました。私は、面倒を見切れずに枯らしてしまったものもあったのですが、ブナとイタヤカエデを育てて植樹しました。ブナはなかなか伸びてくれなかったのですが、イタヤカエデはぐんぐん大きくなったのを覚えています。
 植林の仕事は大変でした。3、4名がひと組になり、苗・肥料とスコップを持って牧場の斜面を登り下りしました。5m間隔で植えるのですが、土が硬くてスコップで穴を掘るのが容易ではありませんでした。穴を掘る係を交代したり、男性に手伝ってもらったりしながら苗を植えたのを覚えています。
 
 昨年、第136回の自然観察会で鳩峰牧場に行きました。ミズナラの木が大きくなって、なんと、どんぐりが実っていました。樹高もあり、葉がたくさん茂っていました。汗ばむほどの陽気だったので、私たちはその植樹したミズナラの木陰で芋煮会をしたのです。ミズナラの木陰はまだ全員を覆うほどの大きさはありませんでしたが、芋煮のコンロに当たる風を柔らげ、私たちを直射日光から守ってくれました。最初に植林した年から10年以上がたち、若木としてどんぐりを実らせ、私たちを待っていてくれたこと、そして、その木陰で楽しく芋煮会をしたことを本当にうれしく思いました。
 大津波に襲われた我が故郷にも、来年はどんぐりから育てたコナラやクヌギの苗木が植樹されます。10年もすれば若木としてどんぐりを実らせるでしょう。実は小動物のえさとなり、落ち葉は肥料となり、大きくなるに連れて地中深く根を張り、減災の役目を果たしてくれると思います。どのような防災緑地公園になるのかを見守って行きたいものです。                  (2015.3.25)  

自宅で育てたブナの苗木:樹高約20 cm

200664日鳩峰牧場植林地で撮影

津波後の沿岸部は防災緑地公園になる

 

 東大巓湿原植生回復処理のその後

会報62号で報告しているように福島県自然保護課では2003、2007年の2回に亘り、東大巓湿原の植生回復事業を実施している。この事業は「吾妻山の会」と当会の2団体のボランテア協力のもとに行われた。当会は最もデリケートな池塘崩壊部の回復処理を担当した。回復処理前の2003年当時、その池塘は登山者の蹴りこみによりダムの役割を担っている周辺泥炭部の一部が崩れ、スゲ類の植生も失われかけて池塘水の流出は時間の問題となっていた。2003年の1回目の植生回復ネット被覆処理により泥炭層の崩壊の進行は抑えることができた。2007年は更にスゲ類の植生を回復するために植生回復ネット被覆の追加処理を加えた。
回復処理から7年が経過した2014年10月にこの湿原を訪れる機会があり、その池塘を確認したところ、見事にスゲ類の植生が回復していた。たった一つの池塘のごく一部の植生崩壊であっても、高山という厳しい条件のもとでは植生回復に10年を要したことになる。

 

 決壊寸前の池塘

200763日)

植生回復ネットの敷設処理

200763日)

 回復したスゲ植生

20141012日)