高山メモランダム  小林澪子

 (高山・吾妻スキー場建設問題を考える 「東北の自然」第48号、1988年11月臨時増刊号より再録)

「高山登山口の鳥子平に、もうせん苔の群落がある」という知人の話に心ひかれた。初秋のころは苔に誘われたトンボの死骸が一面に湿原を蔽うのだという。数年前の初秋、念願の鳥子平湿原を訪ねたことがある。浄土平からスカイラインを南下し、吾妻小富士の南側の兎平から山道に分け入った。

薄暗い樹林の中を約30分も歩いたころ林がきれ、熊笹の繁みの向こうに鳥子平が開けていた。真先に黒い台形の高山が目に入る。針葉樹の衣をまとった高山は、明るい湿原と際立った対照をみせ、まるで非日常の世界のようだった。然し、湿原にトンボの骸は無く、もうせん苔も点在するだけ。池塘の上を一匹のアキアカネが飛んでいた。一瞬の後、苔とトンボの図式の変化はスカイラインの排ガスの影響か、酸性雨のせいなのかとなど考えてみた。しかし、駆けだしの自然保護協会員の私には分かる筈もない。謎を抱え下山してきた。

現在、この高山の自然が破壊の危機にさらされようとしている。62年3月、吉田福島市長は市議会席上で「高山に国際級スキー場を開発し、市の経済活性化をはかる」旨を言明したからである。これに対し「開発による原生林伐採は水資源の破壊と河川の氾濫、固有の動植物の絶滅につながる」と反論する高山の原生林を守る会が二か月後に設立された。その賛同者として私は準備段階から係ることになった。

なぜ一主婦が自然保護なのかと問われたら「自然ほど人間に対し無限の教訓と恩恵を与えるものはない」と答えようと思っている。ひとつの例をあげれば、主婦にとり密接な生活用水の問題がある。「日本人は平和と水はタダだと思っている」というベンダサンの警告を無視する訳にはいかない。「守る会」の調査によれば、荒川の水源地である高山を破壊すると水不足は必至という結論がでている。大水害の頻度も増すだろう。これらの弊害は市税の大濫費につながっていく。目先だけの開発計画に対し、私は深く懸念している。

 

小林澪子さんを偲ぶ

高山の原生林を守る会創立幹事であった小林澪子さんが2014年2月22日に亡くなりました(享年86歳)。高山スキー場反対運動のさなか、私も会報を届けるため、何度かお宅にお伺いした事があります。その度に、おいしいお菓子とお茶を用意していただき、自然保護から身の回りの話題まで楽しくお話をさせていただきました。また、文学の造詣が深く、著書「歴訪の作家たち」では保原町出身の作家・小林美代子の生涯を暖かいまなざしで紹介している姿勢に深く感動を覚えた記憶があります。高山の原生林を守る会を通じて知り合った方々の中で、私が最も尊敬していた一人でした。それだけに今回の訃報に、心の大きな支えを失った強い失望感にとらわれております。
なお、2014年2月26日のお通夜には、佐藤と奥田が参列しました。心よりご冥福をお祈りいたします。(佐藤 守 記) 

タラヨウ   鎌田 和子               

 

タラヨウという木を初めて見たのは、今から10年前の2003年の11月に小石川植物園を訪れたときです。それまで、タラヨウという木があることさえ知らなかったのですが、その時点から、私の目にはタラヨウが見えるようになったらしいです。というのは、小石川植物園から福島に戻った翌日、自転車で福島東郵便局のそばを通りかかったとき、そこにタラヨウの木があることに気づいたからです。それは、郵便局の敷地に「ハガキの木」として植栽されたものでした。それまで全然気にならなかったのに、タラヨウの木を知ったとたん、見えてくるなんて!うふふと笑いながら、葉っぱと赤い実を少しいただいて帰りました。そして、その赤い実を、試しに庭にばらまきました。ひょっとして芽が出たら面白いなと思ったからです。でも、タラヨウの発芽した形跡は見られませんでした。暖かい地方の樹木だから、ここ福島では無理なのだなと、あっさり納得したのでした。

@ 秋ごろから、鉢の中の芽生えが気になっていたのです…。

Aこの赤い実が、本当に発芽阻害物質でコーティングされているのかしら!?

そんなことがあって、何年かたったころ、「木の種類によって、赤い実のまま地上に落ちても発芽しないものがある。」と、本に書いてあるのを見つけました。「発芽阻害物質」というものでコーティングされているので、鳥に食べられないと発芽しないというのです。ええっ、タネにそんな仕掛けがあるの!?…そうか、タラヨウはそのタイプだったのかもしれないな。だから発芽しなかったのかも! とすれば、皮をむけば発芽するってことだ。そう思ったらすぐに試したくなる性分。早速、タラヨウの果実の赤い皮を取り除き、タネだけを鉢に埋め込みました。が、いつしか、そんな試しをしていることを、忘れてしまいました。

 

そして今、2013年の12月中旬、東郵便局のタラヨウの木に、赤い実がいっぱいついているのを目にして、ハッと思い出したのです。庭の鉢の芽生え、あれは、あのときのタラヨウかもしれないッ!何の木の芽生えなのか、見当がつかなくて、秋ごろからずっと気になっていたのがあったのです(写真@)。そのときは、自分が、皮をむいて鉢に埋めたタラヨウが発芽したものかもしれない、などと思い出しもしませんでした。なのに、今、タラヨウの赤い実を見たら、皮をむいてタネを埋め込んだ記憶が一挙によみがえってくるとは…。急いで家に帰り、鉢を持ち上げて、小さな葉っぱを見てみました。本当にタラヨウなのかなァ?この葉には鋸歯があるけど、タラヨウの葉に鋸歯があったっけ?字を書いてみれば分かるかも…。小枝で葉っぱの裏にタラヨウの「タ」の一文字を書いてみました。すると、まもなく、文字が黒ずんできました。小さくてもタラヨウの葉っぱに違いありません!それにしても、いつ、タラヨウのタネを鉢に埋め込んだのだっけ?震災前かなァ、震災後はそんな試しをやる余裕はなかったはずだから…。もしかすると、この4本のタラヨウは、発芽してからすでに3年は経っているのかもしれません! 

 

タラヨウのタネを鉢に埋め込んだのが何年の何月だったか、記憶も記録もないことにあ然としましたが、それ以上に、私は、ちょっと試した皮むきタネが発芽し、原発事故後は放ったらかしの庭で、しかも小さな鉢の中で、生きてきた幼木の強さに感動しました。果たして、タラヨウが発芽阻害の特性を持つ種子だったのか。なぞは残りますが、タネを蒔いた主の《忘却》を呼び覚ましたのが、親木の赤い果実(写真A)だったことに、いくぶん救われた思いがします。  (2013.12.19) 

 

 

 

鹿狼山から  
28 〜あれから3年〜    小幡 仁子

2011年3月11日の東日本大震災から3年の年月が過ぎました。私の住む新地町でも人々は「あれから3年」と言って、それぞれの震災後の生活を振り返っています。先日3月16日(日)に地区の総会がありました。この地区に災害公営住宅が建ち、新たに22戸が編入になりました。区長さんから「ようやく仮設住宅から出て、この地区の新たな住人となられました。地区住民一同喜んでお迎えいたします。新しい住宅で快適な生活をなさってください」とお話がありました。その後、自己紹介がありました。7、8名の方が来られていました。多くは50才台くらいの女性でした。「大戸浜(おおどはま)からきました○○です」「釣師浜(つるしはま)の○○です」とおっしゃっていました。大戸浜地区も釣師浜地区もあの大津波で跡形もなく消え去りました。家を失っただけでなく、家族を亡くされているかもしれないと思いました。言葉の中に出自である大戸浜や釣師浜の土地名があることに、私は感慨を深くしました。どちらの地区も津波被害のあった危険地域ということで人の住む家は建てられないことになりました。夏は海水浴客で賑わい、民宿や旅館からは魚を焼くにおいがしました。漁師を生業とする方も多く、地区としてのまとまりも強固だったように思います。今は、釣師防災緑地としての計画が進んでいるようです。あの町並みや賑わいはもう戻ることはありません。潮の香りのする地区に数十年を過ごし、愛着ある土地やその名前がなくなるのは大変な喪失感であろうと思われました。知っている方はいませんでしたし、顔の表情からは読み取れませんでしたが、心の傷は今も癒えないであろうと思いました。

総会では新地町の現状をいろいろ聞くことができました。高台への防災集団移転促進事業が進み、町内7カ所に造成している中で、6カ所に家が建ち始め、復興が目に形になってきたこと。この3月には総合病院が開院し、診療科目が15科目、病床数が140床もあり、救急医療体制も整っていて、町民がより安全安心な生活ができるようになったこと。その他に、特別養護老人ホームが新たに4月から開所し、介護需要に対応できるようになったことなども聞きました。新地町は超高齢化社会だそうです。総人口に占める65歳以上の人口割合が21%以上になると超高齢化と呼ばれ、新地町は28.6%にもなるというのです。人口は8000人を切りました。震災前の2月には8400人いましたから、400人ほど減少したわけです。毎月の「広報新地」を見ると、誕生する子供の人数より、亡くなるお年寄りの人数が断然多いです。税収が減ってきているので、企業を誘致し、働く場の確保をしていかなければならないということでした。私が65歳になる頃は、もっと高齢化社会になっていることでしょう。若い方がいなければ、お世話になることは出来ません。毎日、鹿狼山に登って健康や体力を維持し、ボケないように頭を使い、いつまでも自分のことは自分でできるようにしたいものだと思いました。

総会の帰り道、隣組の奥さんに誘われて災害公営住宅を見て回りました。緩やかな坂道を挟んで3階建ての建物が4棟ありました。エレベーターはないそうです。駐車場スペースも広くあり、各戸にプレハブ物置が設置されていました。小さいけれど集会所もありました。収入に応じて家賃を支払うそうです。ベランダで洗濯物を取り込んでいる人がいました。すでに新しい生活が始まっているのです。

ここからは青い海も見えました。津波で防波堤がなくなってからは、本当に海が近くなりました。高い防波堤があったときは海が見えませんでした。人は防波堤のすぐ側で何の疑問も危険も感じないで生活していました。しかし、人が作ったものには限界があり、いつしかそれを超えるような自然の猛威がやってくるのだと思います。

今度出来る防災緑地とは、津波から人、町を守るための大きな森だということです。クロマツや広葉樹を合わせて10万本の苗木が必要なので、その一部として、町に自生している樹木の種から苗木を育てて現地に植栽をしたいと書いてありました。青写真には海側に大きな森があり、その後ろには子供達の広場やみんなの広場がありました。またその後ろには県道(嵩上げ道路)があって、町を二重に守るようになっていました。

また、これから大津波が町を襲ってくる時がないとも限りません。でも、沿岸部に人は住まないので3年前のようなことにはならないでしょう。また、豊かな森は豊かな海を作るともいいます。海が見えなくなるような巨大で高い堤防でなく、自然豊かな町のままでいようとする考えが良いと思いました。

町から海を眺める時に大きな森を見るようになる、その日が来るのは後何年後になるのでしょうか。何年、何十年とかかるかもしれませんが、未来ある子供達により安心・安全な環境を残したいものです。( 2014/03/23 ) 



完成した災害公営住宅

 

 


沿岸部に防災緑地が完成するのは何時の日か

(鹿狼山から沿岸部を見る)

 

編集後記

  東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染が発生してからまる3年が経過した。事故直後、ドイツ政府は原子力発電をゼロとする政策を決定した。事故当事国の日本政府は、エネルギー基本計画の序文から東京電力福島第一原子力発電所事故への「深い反省」を削除し、原子力発電をベース電源として位置づけるという。加えて、トルコなどへの原発技術輸出を積極的に推進するのだという。原発立国フランスならともかく、広島、長崎以来、再三再四原子力の深刻な被害を被ったにもかかわらず、現実を直視できない日本政府の救いようのない愚かさに暗澹とする。この3年の間に、原発の安全性を保障する新技術の開発がされたという話は聞いたことがない。また放射能廃棄物処理についても同様である。にもかかわらず、現政権は「安全を確認し、慎重に・・・」と観念的な言葉遊びに終始している。まるで、3年前の事故はまぼろしでもあったかのような振舞である。事故当事県・福島の自然は、深刻な環境汚染を被った上に、「仮置き場」を確保するため森を切り開き、自然エネルギーを確保すべく山や沿岸部の開発計画が進行している。トカゲの尻尾切りのように、事故の後始末を福島で自己完結させようとしているかのようである。この国は狂っていないだろうか。