オオバヤシャブシの雌花   鎌田 和子               

木の実が落ちていると、その形や色合いに惹かれ、つい拾ってしまいます。以前、ヤシャブシとヒメヤシャブシの果実を眺めているうちに、これが頭で、これは胴体、ここに手足をつけたらロバさんになったよ、と楽しだこともありました。「小鳥の森」のオオバヤシャブシの果実は大きくてきれいなので、訪れるたびに拾って帰ったものです。その頃は、ヤシャブシもオオバヤシャブシも果実が似ていると思うだけで、それぞれの果実のつき方に違いがあるなど、気づきもしませんでした。ずっとあとになって、「ヤシャブシは通常2個、オオバヤシャブシは1個ずつつく」ということを図鑑で知りました。

当会の4月の観察会は「小鳥の森」です。観察会のテーマは「スプリングエフェメラル」。けれど、私の関心はオオバヤシャブシの冬芽です。そのわけは、2月に水林公園でアカシデの折れ枝を拾ったことに始まります。その折れ枝にはアカシデの冬芽がびっしりついていました。ちょっと太ったのやら細いのやら。まるで神様が、「アカシデの花を見たいなら、まずは冬芽の観察から始めよ!」とでも言っているようでした。図鑑を繰ると、「大きな冬芽には雄花序が、細い冬芽には雌花序か葉が入っている」とありました。クマシデ属の冬芽はみなそうらしい。特にアカシデは、「花も葉も小形で端正。日本的な趣がある」という。そんな日本情緒あふれるアカシデの花を見逃さないようにしなくては…と、思う一方、観察会でよく見かけるツノハシバミの雄花は、冬芽のうちから雄花であると分かるけど、あれは何科の何属?どんどん図鑑をめくっていって、オオバヤシャブシの冬芽に関心が向いたのでした。

春、「小鳥の森」を歩いていると、黄緑色の、太くて大きい毛虫のようなものに出会ってびっくりしたものです。いつの頃からか、それはオオバヤシャブシの雄花が落ちたものだと知るのですが、これまで雌花は?と気になったことなど一度もありませんでした。果実を拾いはしても、雌花を意識したことがなかったのです!かくして、今回の観察会はオオバヤシャブシの雌花観察のチャンスとなったわけです。オオバヤシャブシの雌花の冬芽は芽鱗に包まれ、雄花より上についているという。それをしっかりこの目で確かめようと思いました。

ところが、一次下見の帰りがけに拾った果実!オオバヤシャブシの木の下で拾ったのに、図鑑の解説と異なる果実のつき方をしていました(写真@)。どうしてなの!?戸惑いつつ、その果実を手にしたまま、ネイチャーセンターへの道を下りました。すると、「森の案内人」さんが、「オオバヤシャブシですね。」と声をかけてくださいました。けれど、私の頭の中には、オオバヤシャブシは果実が1個ずつつくという解説が入っているものですから、納得がいきません。あれこれ考えを巡らしました。オオバヤシャブシの木の近くに、こんな果実のつき方をするハンノキがあったのかな? 引き返してハンノキを探す? でもハンノキかどうか見分けられる?何も資料をもってきてないよ…。釈然としないまま、その日は帰りました。帰ってから、手持ちの図鑑を全部調べました。何冊めかに、写真@とよく似た果実を見つけました。ミヤマヤシャブシ(写真A)。これだ!と声を上げました。果実が4、5個まとまってついている形状が、私の拾った果実とソックリに見えました。「小鳥の森」のあの辺りにミヤマヤシャブシが混じっているのでは?

そして、4月7日、会の代表Sさんと一緒の、ホントの下見の日を迎えました。謎の果実の親木を探すべく、オオバヤシャブシの木の下に立ちました。目線は、枝に残っている昨年の果実へ…。なんと、果実は図鑑の解説どおり、1個ずつついていました。が、よく見ていくと、同じオオバヤシャブシの木の枝先に、果実が4、5個まとまってついているではありませんか。……オオバヤシャブシなのに、どうして、どうしてなの!?「う〜む、交雑種?」 「まさか!」 「ミヤマヤシャブシかも、なんて期待したけど…、違うわね。」 「ミヤマヤシャブシはここらには植生していません。あったら大発見です。」それぞれが思いつくことを口にし、首をひねったのでした。

一週間後の観察会で、Sさんは、オオバヤシャブシの果実のつき方に変異があることに気づいたとき、それはどうしてだろう?と考えることが大事であって…と、参加者に話してました。それから、オオバヤシャブシの果実の変異がどうして起きたのか、Sさんは猛暑の影響ではないかと、話してくださいましたが、詳しいことはその場ではよく頭に入りませんでした。

その3日後、桑折町の半田沼周辺を歩いていたら、そこにもオオバヤシャブシがありました。それがなんと、「小鳥の森」のオオバヤシャブシと同じような果実のつき方をしていたのです。半田沼のオオバヤシャブシも猛暑で変異したってこと!?猛暑だと、どうしてオオバヤシャブシの雌花が変異するのでしょう?Sさんにメールし、詳しく説明してもらいました。Sさんの解説によると、「今年観察している果実は、2011年に花芽が分化したものであること。2011年は夏場に高温乾燥が続いたので雌花が多く分化し、しかも雌花と雌花の間隔(節間)が詰まったために、見かけ上、穂のように見えるのではないか。不良環境になるほど、子孫を多く残す方に樹の営みが適応したものと考えられる。2012年も高温乾燥だったので、来年も同様の現象が起こるかもしれない。」というのです。なるほど!種の保存のためにそういう営みが起こると聞くと納得がいきます。

とすれば、もうすでにオオバヤシャブシの雌花は分化しているはず。よーく観察すれば、新しい穂状の雌花が見つかるかもしれません。翌日、「小鳥の森」へ急ぎました。「オオバヤシャブシの葉が大きくて、雌花が隠れて見えないなんてことがありませんように…」と、願いながら石段を上り、オオバヤシャブシの枝々に目を凝らすと、……Sさんの推測どおりの、穂状の雌花が突き出ていたのでした(写真B)!! 謎の果実は、この穂状の雌花が結実したものということなのでしょう。オオバヤシャブシの果実の変異に惑わされ、当初の目的のオオバヤシャブシの雌花観察をすっかり忘れていました。が、謎の解明の糸口はオオバヤシャブシの雌花の観察にあったのでした。だいぶ回り道をしてしまいました。これって、やっぱり神様のしわざでしょうか!?(2013.4.24)

 

 

 

  @    オオバヤシャブシの果実なら1個ずつのはず…?

Aこれかも!似ているよね。

B穂状の雌花

 

 

 

鹿狼山から  
25 〜被災地の開発〜    小幡 仁子

 

私の住む新地町には仮設住宅が数カ所あります。大津波により家を流された沿岸部の方々が住んでいます。また、福島第一発の放射能汚染から逃れ、この新地町の仮設住宅に住んでいる方もいます。東日本大震災から2年が過ぎ、町では災害公営住宅事業や防災集団移転促進事業が始まり、あちこちで大型重機の音が鳴り響き、大型トラックが往来しています。鹿狼山に登ると、宅地造成の赤土部分が点々としているのと、常磐自動車道新地ICの工事現場が真下に見えます。常磐線新地駅は流され、相馬−浜吉田間は電車が走っていません。新しい線路は6号国道沿いに作り、前の線路は土砂を嵩上げして道路にする計画です。堤防と道路を作り、津波に対して二重に備えることになっています。そして、宅地や被災した沿岸部の開発には大量の土砂が足りないので、横浜市と協定を結んで、横浜市の公共工事で発生した土砂を提供してもらうことになりました。工事はどんどん進んでいるので、来年になれば新地町もずいぶん様変わりすると思われます。

震災前ならば、森林がなぎ倒され赤土がむき出しになったり、遠いよその地区から土砂が大量に運ばれたりすることに、違和感や不安感を持ったかもしれません。かなりの自然破壊だし、よその地区の土砂にはこの土地にはない様々な種子が混じっていることでしょう。自然への悪影響が考えられます。しかし、今の状況を見る限り、この町が選ぶ道はこれしか無いのだという気がします。沿岸部は危険区域に指定され、人は住めないし、1,000人を超える方が移転しなければなりません。常磐自動車道も、福島第一原発の放射能汚染で原町IC以南はいつ開通になるか分かりません。しかし、この地方が置き去りにされないために、仙台まで早急につなぐ必要があるのだそうです。人は考える余裕も時間も無く、現実に押し流されて行くようです。

応急仮設住宅の住んでいる方の話を聞くと、冬は結露がすごくて、毎朝起きるとまずタオルで拭くのが日課であるとか、薄い壁1枚だけで隣の家と仕切られているので、大きい音を出さないように気を遣いながら生活しているとか聞きました。そんな仮設の生活から抜けて、早く以前のように自分の家で気兼ねなく生活してほしいとは誰もが思うところです。町の広報には、毎月のように住宅造成の記事や新しい団地のプランが載っています。

さて、最近、町内に家を新築し、仮設を出た方々もいます。5軒以上でまとまれば、優先的にガスや水道の工事をしてくれるそうです。ただ、誰と一緒にまとまるかが大きな問題であると聞きました。誰でもお隣には気の合う方に来てほしいでしょう。まとまるのも様々な思惑が絡み大変なようです。また、家を建て住んでみると、今までとは違う地区の習慣というものがあり、入った方も受け入れる側も戸惑いがあるそうです。沿岸部では漁師や民宿等で生計を立てていた方が多く、山側に住み田畑を耕してきた農業者とは気質が違うのでしょう。今までは田畑に堆肥を置きっぱなしにしていても、みんながお互い様だからということで、文句も言われないで過ごしてきたが、これからはそういかないだろう、臭いとか虫が来るとか言われそうだ等、心配しているのでした。

 考えてみれば、人口8,000人余りの小さな町ですが、15の行政区があり、地区毎に神社や集会所がありました。お祭りや行事、隣組との関係もありました。人間関係が希薄になりつつある昨今ですが、まだ地区のコミュニティは生きていました。今回の震災でも、おおよそ、地区ごとの仮設住宅があり、地区のコミュニティが失われないように配慮されています。住宅地の造成が終わり、家を建てて移転したら移転先の行政区の一員となるわけですが、どのようにコミュニティは変化していくのでしょうか。仮設住宅の不自由な生活が終わり、引っ越しができれば元の暮らしに戻れるかというとそうでもないようです。地区で近隣の人々と安定した関係を築きながら住むには時間もかかるでしょう。また、いろいろな面で折り合いをつける必要がありそうです。(2013.6.12)  

 

狭い仮設住宅

宅地の造成が進む町の様子

鹿狼山から見える造成地