自然保護と脱原発  佐藤 守

 

 

福島ではどこでも見られる除染看板

   高山の原生林を守る会は2013年で26年目を数えることとなった。当会の設立は1987年の福島市の高山スキー場構想に端を発している。吾妻連峰の一峰である高山には県庁所在地では全国的にも比類のないブナ林が存在し、更にはシラビソの北限となっていることが明らかになり、福島県では尾瀬以来の市民レベルの自然保護運動が展開された。高山は尾瀬とは異なり、山スキーを楽しむ一部登山者以外は知る人の少ない無名峰であった。しかし、その森林保護のために、それまでの自然保護運動としては異例の多くの市民が参加した。過去の自然保護運動と同様に、その活動を牽引したのは初代代表の穂積正氏の自然を畏敬する強烈な個性であった。一方で、スキー場建設反対運動の基盤となる高山や吾妻連峰の植生調査を担ったのは、県内の山岳会を中心とした登山愛好家達であった。山頂を目指すことしか念頭にない登山を行ってきた多くの登山家は、植生調査を通じて、山に登って森を見てこなかったことに思い至り、以後の登山姿勢も大きく変化した。

  白神山地の世界遺産指定を機に、かつてなく森林生態系保護の世論が高まり、吾妻連峰も森林生態系保護地域として指定され、高山スキー場建設構想は終息した。実は、この時期は全国的にブナ林を中心とする森林生態系を保護する活動が高まり、多くの自然保護グループが誕生している。その活動の中心になった理念は、経済活動を優先した安易な森林開発に対する評価の見直しであった。森林開発の目的はスキー場、ゴルフ場、ダム等、公共の福祉実現を目的とした経済活動であり、短期的には開発により金銭的、防災的効果として目的は達成されてきた。開発に要する国家予算は膨大であり、それにより巨大企業が生まれ、戦後日本の発展を牽引してきた。しかし、森林伐採による負の影響は長い時間を経て、生態系の破綻として発現する。つまり開発型経済効果と生態系破綻では発現までの時間軸が全く異なるのである。

2011年3月15日に東京電力福島第一原子力発電所で人災による事故が発生し、チェルノブイリ事故以来の大規模な放射能による環境汚染が発生した。東京電力福島第一原子力発電所は昭和46年(1971年)から運転を開始した。水力発電や火力発電が大規模自然破壊や大気汚染と引き換えに運転されていることが社会問題化した時期に、自然にやさしく経済効果の高い発電方法の旗手として登場したのである。東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射性核種の量は、131I(ヨウ素131)35g134Cs(セシウム134)4.7kg137Cs(セシウム137)380gと試算されている。たったこれだけの量の放射性核種が飛散しただけで、多くの福島県民の日常生活が破壊され、いらぬ差別と混乱を招き、膨大な国家予算が支出されている。運転開始から39年で起きた事故であり、この39年間の短期的な経済効果と100年以上はかかるだろう事故処理に要する経費とでは比較にならないことは容易に想像できる。加えて、事故により汚染された森林環境の回復にいたるプロセスは未知の領域である。原子力発電も森林開発同様、為政者が想定する経済効果と破綻の時間軸が異なるのである。

このような観点に立てば、森林開発と原発推進の対立軸としての自然保護と脱原発は共通軸を持つことは容易に理解できる。事故発生翌年に「終息宣言」を発した政権に代わり、「経済優先」を旗印にした現政権が誕生した。しかし、現政権の基盤政党は原子力発電を推進してきた責任政党である。前政権も現政権も森林開発や原発がはらむ時間軸を理解しているとは思えない。特に「経済的インセンティブ」というあやしげな体裁をとりつくろった刃を、脱原発を目指す人々に振りかざす現政権の姿勢にはとてもいやらしさを感じる。

サクラガイ   鎌田 和子               

1月12日に、冬の鎌倉材木座海岸に出かけました。もちろん貝殻拾いにです。貝拾いの狙い目は冬場だそうな。Mさんから、「鎌倉の友人がね、桜貝が拾えるようになったって言ってきたわよ。」との情報はもうだいぶ前に入っていました。
  ワクワクしながら浜辺に立ちました。夏には見えなかった富士山が由比ヶ浜の方向に見えています。沖にはサーフィンの帆が並んでいます。砂浜に目をやると、桜貝がざっくざっく…というようにはいきませんでした。…ナニ?!…どこにもないじゃん。そんな〜!と心の内で叫びました。早朝に誰かが拾ってしまったの? 桜貝が見あたらないことを不審に思いながら、足下に落ちている貝殻を拾いました。夏に来たときには、「すごいの見つけたよッ!」と貝殻のかけらばかり拾っていた孫が、今日は大きくて形がちゃんとしたのを拾うんだと張り切っています。レジ袋がたちまちいっぱいになったようです。でも、兄嫁からも姪からも「サクラガイ発見!」の声は上がりません。

 

 

樺色のカバザクラ

桜貝は砂にぴったり吸い付いていた…

だいぶ時間がたったころ、犬と一緒に渚を歩いてきた女性とすれ違いました。と、その女性が前かがみになったと思ったら、砂浜から何かを拾い、「サクラガイは透明だから見えにくいのね。よろしかったらどうぞ!」と、ひとひらの貝を私にくださいました。サクラガイが透明だなんて、考えもしませんでした。すごいヒントをありがとう! すると、その女性はまたサッと手をのばして貝を拾いました。そして、「ほら、これは今日一番の、黄色いサクラガイよ!」と、私の手のひらに載せてくれました(写真@)。「なんて目のいい人なの!」と感心するばかりでした。ましてや、そのとき、私にはその二枚貝が黄色い色をしているようには見えないのですから。…なるほど、サクラガイは薄いから濡れると透明になり、それが砂にピタッと吸い付いてしまって見えにくくなっているのです。だから、他の貝殻と同じ感覚で探していてはダメだったのです。 

 犬連れの女性の《透明》というひとことによって、今まで見えなかった桜貝が見えてきました。写真Aがその中の一つです。《意識》すると、目の働きが変化することは、植物や蝶を観察していてよく経験することです。今回のサクラガイ探しでは、この《目》の《不思議な力》に助けられました。けれど、砂にぴったりくっついている状態の桜貝を、割らずに拾い上げることができるかどうかは、神のみぞ知る! 私にとって、麗しき桜貝ひとつ拾うことは、まるで幻の宝探しのようなものでした。    (2013.1.18)

 

 

 

鹿狼山から  
24 〜被災地の成人式〜    小幡 仁子

 私が住む新地町は東日本大震災の大津波により甚大な被害を受けました。今も沿岸部は瓦礫こそ撤去されましたが、防波堤の残骸とコンクリート基礎だけ残る家々が、津波の破壊力のすごさを伝えています。ここに来る度に自然の猛威の前に、人は無力であることを感じさせられます。震災前は数メートルの高い防波堤により、町内や6号国道からは海が見えませんでした。震災後は至る所から海が見えるようになり、自分たちが海のすぐ側に住み、大津波がきたら命の危険があることを実感しています。

 この大津波で新地町では100人を超える方が亡くなられました。その中に高校を卒業したばかりの若者達が10人いました。私の次男の同級生達でした。今年1月は町の成人式に新成人として出席し、大人への門出をみんな揃って祝うはずでしたが、それは叶わぬこととなってしまいました。

成人式の当日に、私はスーツ姿の次男を連れて実家に立ち寄りました。父は「おお、カッコイイなあ」と目を細めて喜んでいました。次男の時は東日本大震災により、入学式はありませんでしたから、初めてスーツ姿を見たのです。そのうちに、「ネクタイの締め方が良くないから」と言って、自分のネクタイを持ってきて教え始めました。次男は教えられるままに締め直していました。母はそんな二人を嬉しそうに見ていました。母は次男が立ち寄る度に、この大津波で亡くなった自分の実家の孫息子を思い返して言うのです。たった一人しかいない孫息子なので、叔母は手塩にかけて育ててきました。2年前、叔母もいとこも地元に就職が決まりとても喜んでいたのでした。今は毎朝、遺影に向かって「今日も気を付けて仕事に行ってくるんだよ」と声をかけているのだそうです。そんな話を聞くと、あの若者達10人の家族がそれぞれに悲しみを新たにして、この成人式を迎えているように思いました。

 さて、成人式会場に行ってみると、懐かしいお母さん達も沢山おりました。女子は和服で着飾りきれいに化粧をして、初めは誰か分かりませんでした。町内に中学校は一つしかありませんから、みんな中学校の同級生達です。83名が新成人となりました。笑い声に包まれ、写真を撮り合い、和気藹々の雰囲気でした。私も誘われるままに式場の後方席に座りました。次男も友達と一緒に着座しているのが見えました。式に先立って、この津波で亡くなった10名の名前が読み上げられ、参加者全員で黙祷を捧げました。その子ども達の顔が思い浮かびました。幼馴染みのTちゃんの息子、いとこの息子の名前もありました。お母さん達もハンカチを出して涙を拭いていました。

 新成人代表は涙ながらに「私たちは、大津波により、亡くなった同級生の分まで生きたいと思います。この成人式では10人の思い出を私たちの心に改めて刻もうと思います」と述べていました。また、「新成人フリートーク」の時間では大学で法律を学んでいるという若者が「僕たちは、10人もの同級生を津波で亡くしました。人の死というものを目の当たりにして、自分は日本にある死刑制度というものを考えていきたいと思っています」と話していました。記念アトラクションでは、アルパのミニコンサートがありましたが、奏者の方に「今までに成人式の記念コンサートには何度も呼ばれましたが、一番静かに聴いていただきました」と言われました。

 式の最後に記念撮影がありました。若者達はステージ前に集合し、写真屋さんの声がけに応じて写真を撮りました。母親グループもカメラを持って前に進み、若者達の晴れ姿を撮りました。1回目の撮影が終わると、若者達は亡くなった同級生の遺影を取り出してきました。2回目の撮影となりました。遺影は最前列で仲良しの友達の膝に抱かれました。「広報新地2月号」には遺影を持った集合写真が掲載されていました。                                          

大津波により10人の同級生を亡くしたことは、若者達の心に一生残り、折に触れては人の生と死ということを考えさせてくれることでしょう。日々を大切にし、亡くなった同級生の分まで強くたくましく生き抜いてほしいものです。(2013.3.17)    

 

防波堤は壊れたまま

基礎のみ残る家

新成人の若者達