ツマグロヒョウモン   鎌田 和子               

9月末、孫がツマグロヒョウモンの幼虫を見つけたのをきっかけに、幼虫の大きいのやら小さいのやら、合わせて10匹くらい世話をしながら観察しました。10月の中ごろに入って、連日一頭ずつ、♂♂♀♀の順に羽化しました。側溝の水の中に落っこちているのをすくい上げた小さい幼虫の方も順調に育ち、蛹化し、10月末には、♂♂♀♂♂♂の順に羽化して飛び立っていきました。

ツマグロヒョウモンの幼虫の世話を始めたころから、急に気温が下がってハラハラしました。というのは、ツマグロヒョウモンは、日本では三重県以西に分布する蝶と聞いていたので、東北の福島の地で越冬するのは無理なのではないか、つまり、低温になると幼虫も蛹も死滅すると思っていたからです。それで、世話している幼虫や蛹を、本格的な寒さが来ないうちに早く羽化させてしまいたい、そればかり願っていました。だから、世話をした幼虫がみな無事に成虫になり、飛び立ったときは本当にホッとしました。

ところが、その後、散歩に出ると、どこからか、ひら〜りとチョウが現れます。見ると、ツマグロヒョウモンの♂だったり♀だったり。もしかすると、うちで羽化したチョウかもしれません。たとえそうでなくても、ツマグロヒョウモンが元気に飛び回っているのを見るのは嬉しいものです。と同時に、このチョウたちのその後のことが気になり始めました。幼虫の世話に夢中になっていたときには、成虫になってからのことは考えないことにしていたのでしたが、元気に飛びまわる姿を見ると、このチョウたちの命は継承されるのか、やはり気になります。秋も深まり、寒さに向かっていても、そんなことおかまいなしに♀チョウは産卵するでしょう。その卵はどうなるのでしょうか…。

 

 ツマグロヒョウモン

数年前、読売新聞で「福島にツマグロヒョウモンが出現!温暖化の影響か」というような見出しの記事を読んだ記憶があります。今夏、私はツマグロヒョウモンを数多く見かけました。そのツマグロヒョウモンが、福島以外のところから飛来してきたものなのか、温暖化の影響によって、すでに福島の地に土着した子孫なのか、私は分かりません。以前、ツマグロヒョウモンが話題になったとき、Sさんは、ツマグロヒョウモンは園芸用のパンジーを食するので、パンジーと一緒に幼虫や卵が移入した可能性があると話してくれました。なるほど、ツマグロヒョウモンはパンジーとともに福島入りしたのか!と納得したのでした。そのときは、ツマグロヒョウモンが《福島で越冬するのか》どうかなど、気にもしませんでした。

その時点から数年を経て、今年、たまたまツマグロヒョウモンの幼虫とかかわって、ハッと気がつきました。園芸用のパンジーが店頭に並ぶのは、春先だとばかり思っていましたが、今の季節もパンジーが売り出されることを、つい先日、新聞の折り込みチラシで知りました。その大量に入荷したパンジーに、もしツマグロヒョウモンの幼虫や卵が付いていたとしたら?その幼虫や卵は、日当たりのいい庭先の、プランターに移植されたパンジーの根元でじっと冬を越すかもしれません。ということは、私が世話したツマグロヒョウモンの子孫だって、日当たりのいい道端のスミレの根元で、冬を越すかもしれない!そう気づいたのです。そのうえ、保育社の「原色日本蝶類生態図鑑(U)」の、ツマグロヒョウモンの頁に、次のような記述があるのを見つけたのです。「奈良県生駒市では人家の庭のスミレに依存する亜終令〜終令幼虫が、ときに−7℃以下になる屋外で毎年越冬しているという。」 これは奈良県のことだけれど、−7℃以下で越冬する個体があるというなら、ここ福島で越冬することも十分考えられます。私はなんとしても幼虫を探して《越冬するかどうか》確かめてみたいと思いました。

 

11月の第1週の日曜日、もしやと、9月の末にツマグロヒョウモンの幼虫がうろうろしていたスミレの株のもとへ行ってみました。願えば叶うもの!8ミリくらいのが1匹と、1、5センチくらいのが1匹、スミレの葉裏に付いていました。なんとラッキーなのでしょう!この幼虫で、越冬できるかどうかを確かめることができそうです。比較的大きい方の幼虫はこれからスミレの葉を食べて育つでしょうから、蛹で越冬することになるのかも。小さいのは幼虫のままで越冬かな。気分はルンルン♪…、とはいえ、暖かい春を迎えるまでは5か月もあるのです。うまくいくとはかぎりません。心配なことがいろいろ浮かんできます。でも、観察してみようと思います。(2012.11.5)

 

 

 

鹿狼山から  
23 〜阿武隈の山々〜    小幡 仁子

 11月になり、標高の高い山では紅葉が終わり、吾妻・安達太良の峰々に雪の便りが訪れると、阿武隈の山々が恋しくなる。阿武隈山系では11月を過ぎると紅葉が美しい。また、人里近いこともあって、日没が早くなるこの時期に時間もかからず安心して山に登れるのが良いのである。震災前の2009年と2010年の2年間だったが、「阿武隈強化月間」と称してこの時期に阿武隈山地をみんなで歩いた。小春日和の中、落ち葉を踏みしめながらの陽だまりハイキングは何とも言われない安らぎがあった。そして、のんびり歩く里山には芋煮汁がよく似合うからと言って、山頂で熱々のお汁をふうふうしながら食べていた。鼻水をすすりながら食べる芋煮汁は格別に美味しかったなあ。

訪ね歩いた山の中には浪江町の手倉山(631m)や戸神山(430m)があった。苔むした祠や石仏に古くから里山として地域の人々と関わってきた歴史が感じられた。手倉山の頂上岩場には立派な神社が鎮座していた。手倉山に登ったときは風が冷たかったから、その岩の陰で風を避けてお汁を食べたっけ。みんな「美味しい、美味しい」と言って食べていた。そして、高瀬川渓谷の紅葉は息を呑むほどに赤く美しかったのを覚えている。大熊町の日隠山(601.5m)にも行った。モミの大木が林立し素晴らしく立派な山だった。しかも明治時代まで登山道が「塩の径、鉄の径」として使われていたというから、歴史的にも価値のある山だったと思う。しかし、これらの山は、原発事故による放射能汚染により、今では登ることのできない山となってしまった。先日調査した飯舘村の野手上山でさえ13μ?/h(地面)を超えていたから、さぞ高レベルに汚染されていることだろう。残念でならない。こんな事故さえなかったら、また行くこともできただろうに。

さて、1216日(日)は鹿狼山の登山道整備と掃除があった。主催は地元新地町にある山の会である。鹿狼山は阿武隈山系の北外れにあり、幸運にも放射能被害からは免れている。土日だけでなく、平日も登る人は多い。先日、私が久しぶりに鹿狼山を登っていたらS氏に会いこの話を聞いた。「山の会の人だけでなく、鹿狼山に世話になっている方にも呼びかけているんです」とS氏は言った。「鹿狼山の世話になっている方」という言葉がとても心に残った。私は鹿狼山にはずいぶん世話になっている。春夏秋冬(夏はキツネノカミソリの時だけ)暇があればこの山に登り、花の写真を撮り、植物を観察し、季節の移ろいを楽しんできた。鹿狼山に何かお返しをしなければならない。お掃除くらいはしよう。そう思って参加することにした。

朝、9時に鹿狼山駐車場に行ってみると、20名以上の方がスコップや竹箒などをもって集まっていた。ほとんど中高年の男性で、女性は私と年配の方の2名だけだった。これは男性の仕事だったかといささか気後れがした。山の会会長や事務局長の挨拶があった。「年末の忙しいときに皆様には〜」と始まり「〜鹿狼山の神様も喜ばれると思います。」という結びだった。また、鹿狼山神社氏子総代という方の挨拶は「山の会の皆様にとっては登山道ですが、私たち氏子にとっては参道というわけで、整備していただくことを氏子を代表して御礼申し上げます。氏子一同も来週は参道を掃き清めます」ということだった。また、新地町からお茶ペットボトルが提供されていた。鹿狼山が地域に根ざし、人々から感謝され、いつも大切にされていることを改めて感じた。

ところで、私は登山道整備といってもスコップを使うような仕事はできないと思い、庭箒を持って参加したのだった。男性陣が石段脇の掘れたところを直すと石段が泥で汚れるので、そんなところを掃いたり、石段に降り落ちた葉を掃いたりしていた。あんまり役に立っていないなあと思っていたら、「そうやって掃いてもらえると石段がきれいになっていいですねえ」と言われほっとしたのである。箒を持つ手にも力が入った。登山道を上ってくる人達が、口々に「ご苦労様です」と言ってくれた。女の人が一人で登ってきて「ここは一人で来ても安心だからよく来るんですよ」と話かけてきた。久しぶりに同級生二人にも会えた。一人は津波で家を流されていた。「俺も一時はまいったが、今は何とかやってっから」と彼は言っていた。

鹿狼山は良い山である。しかし、浪江町・大熊町の山々は、これからもずっと地域の人に整備されることも、参道として掃き清められることもないであろう。悲しくてならない(2012.12.22)。

 

戸神山の石仏

登山道整備には沢山の人々が来た

整備の様子