ノウゼンカズラの結実の秘密   鎌田 和子               

 

 

ミツバチ 

果実 

 2011年の1月に、偶然ノウゼンカズラの果実に出会い、そのユーモラスな外観と、中に詰まっている種子に惹かれたのでした。また、そのとき、それとは別なことにも興味がわいていたのです。一つは、手持ちの植物図鑑によると、ノウゼンカズラの果実は日本では結実しにくいという。なのに、どうして、ここのノウゼンカズラは結実したのか。二つ目は、この木が結実したのが、これが初めてなのか、それとも毎年なのか。もし仮に、初めて結実したとして、その原因が昨夏の猛暑にあるとしたら、この木以外にも結実した木があったかもしれないではないか。ならば、それを探してみなくては…などなど、私流の好奇心が首をもたげたのです。でも、冬枯れの時期に他のノウゼンカズラの木がどこにあるかなどわかるはずもなく、花の咲く季節まで待つことにしたのでした。
ところが、3月11日の大震災。大地は、原発事故によって放射能に汚染されてしまったのです…。桜が、いつ咲いたのか、いつ終わったのか。心はうつろでした。ある作家は「この春、日本ではみんながいくら悲しんでも緑は萌え桜は咲いた。我々は春を恨みはしなかったけれども、何か大事なものの欠けた空疎な春だった。」と表現していましたが、まさにそのとおりでした。…そんな日々の中で、庭のシュンランに人工受粉を試みることをためらいながらも、昨年一本だけ結実したのが私の人工受粉によるものなのか、確かめなくてはなるまいと、今年も試すことにした。
 SさんやAさんにフモトスミレのありかを案内すると約束していたことを思い出し、慌てて下見に出かけたりするうちに、頭の中のモヤモヤが少しとれてきました。そうして、6月末、ふっと、ノウゼンカズラのことを思い出しました。花芽が付いたころかなと思っていたのが、なんと花が咲いているではありませんか。アメリカノウゼンカズラでした。その漏斗状の、濃い橙色の花びらに、蜂がブンブン出たり入ったりしていました(写真@)。よく見ると、蜂の体に黄色い花粉のようなものがついています。「これはスゴい。結実の秘密はこの蜂かもしれない!」と、興奮しました。ほぼ1か月後、このアメリカノウゼンカズラの木には、青々した果実が下がっていました(写真A)。図鑑には、結実しにくいとあるけれど、「ここに、こんなにいっぱい実を結んでいるよ〜」と叫びたい気分でした。
さて次は、この木以外にも結実している木があるかもしれないという疑問が残っています。それを探してみなくてはなりません。この時期、自転車で町内を走ると、どこの家の庭にもノウゼンカズラかアメリカノウゼンカズラの花が咲いていて驚きました。去年もこんなに咲いていたっけ?と思いながら、果実を探しました。結果は、植物図鑑の解説どおりでした。どこのノウゼンカズラも全然果実を付けていませんでした。一個くらい付いていてもよさそうなのに、全く付いていません。やはり、ノウゼンカズラが結実するのは稀なことなのでしょうか。
 ならば、どうしてあそこの木だけが結実するのか、不思議です。やっぱり結実の秘密はあの蜂にあるということなのでしょうか。あの蜂は、あそこにだけやってきて、他のところに飛んで行かないのでしょうか。どうしてなの?なぞはすっかり解けたわけではありません。この後、どう調べればいいのでしょう。(2011.9.16) 

 

 宮沢賢治「よだかの星」に寄せて   伊藤順子  

 もう数十年にもなるけれど、仕事を覚え家業を支えたい一心で我武者羅に脇目もふらず突っ走って居て、自他共に何とか半人前くらいにはなったかな?と一息吐いた頃、ふと立ち止まってしまった。すると何もかもが迷いの要因になってしまって落ち込んだ。
天下の資材を使って私は何をしているんだろうか?本当に自分にその価値があるのか?本当の自分を生かすのはこれで良かったのか?大体,私は生まれてきて良かったのか?堂々巡りの地獄の中で本当に犬が自分の尻尾を咥えるように意味もなく回っていた&悩んでいた。
それでも、そんな馬鹿な私を見捨てなかった人々も居て、自然の中を歩くことから始まって、以前よりもっともっとふてぶてしく日常を歩き始めたけれど、宮沢賢治の「よだかの星」を読むと、彼の痛みが良く解る気がして一緒に悩んだりする。
 近年、「命を頂いて命を生かす」という言葉に出会い、これは是非、彼のよだかに伝えてやりたいとも思い、自分もそのように日々人も物も大切に暮らしたいものだと思っていた。
 けれど、3/11の大地震に続く原発事故は、そんな「頂く命」の全てを無残にも台無しにした・・。当初は無我夢中で、悪いということは避け、助け合えることは助け合い、学べることは学び、長引く余震の中で日々を送って来たけれど、これでもか?これでもか?と容赦なく襲いかかる放射性物資の爪跡は「前を向こう!」「めげない!!」と思って上げた頭をにべもなくうな垂れさせる。それでも、命ある限り此の目には見えない地獄の中で闘って生きて行くしかないのだろう、一瞬の間に或いは辛い避難生活の末に星になった同胞の無念のためにも。 

 

 

鹿狼山から  
20 被災地、あれから1年    小幡 仁子

 今日は3月11日。あれから1年が過ぎました。ここ新地町では大津波により100名を超える方が亡くなり、沿岸部の町並みが消え去りました。本日、町の総合体育館では追悼式が行われました。

私は勤務先の生徒が一人、この津波によって亡くなったので、お墓参りをするために出かけました。早めに家を出て海の方に立ち寄ってみました、国道6号線を東に50mほど下ると、そこは未だに別世界です。「日常の生活」というものが消え去った、なんとも孤独で荒れ果てた世界が広がっています。ガレキは片付けられましたが、あちこちに転がる大きなコンクリートの塊は、津波で破壊された堤防の破片です。倒れたままの電柱は、運ぶには重すぎるのか、運ぶ先がないのか、これも津波の破壊力のすごさを物語っています。多数の家々は基礎コンクリートを残すのみです。

今日は一周忌に当たるので、法要で親族が集まったのでしょう、土台しか残っていない家に入り、指差しながら話している光景がありました。ここが茶の間だった、ここは台所だったなどと確かめているようでした。黒ネクタイの喪服姿でしたから、そこに住んでいた誰かが流されて亡くなったのです。お坊さんの姿もありました。お坊さんと一緒に手を合わせて、何度も何度も頭を下げて祈っている女性もいました。改めて、ここには数え切れない悲しみがあったのだと思いました。

新地町では、この大津波で町域の5分の1が浸水しました。600世帯近くが半壊・全壊の被害を受けました。家を失った方は、町に数カ所ある応急仮設住宅に住んでいます。今回の町議会で、この津波浸水地域は、人が住む住宅や施設は建ててはいけない災害危険地域に指定されました。被災した町民の方も賛同してくれたということです。早い時期に海岸には防潮堤を建設し、災害危険地区は防潮林や防災緑地を配置し、また、道路や鉄道を整備して、二線堤をいう考え方で「減災」していくことになりました。

1000年前にあったという大津波の到達点が、今の国道6号線と一致するといいますから、国道の東側の低い土地は、本当は危険な土地だったと思います。人間は自分たちに都合が良いように埋め立てたり、開発したりしてきました。海抜0m地帯でも、厚いコンクリートの堤防を築き、それで安心して暮らしてきました。しかし、人間は自然の脅威の前には無力であることを思い知らされました。この先も何があるか分かりません。原発の問題を含めて、人間は自然に対してどのように働きかければいいのかを、考え直さなくてはならないでしょう。

さて、教え子のお墓参りには、同級生達が集まってくれました。職に就き、およそ1年になります。この震災で仕事のスタートが遅れましたが、職場に慣れ、各々が自分の役割を果たして、無事にお給料をいただいているようです。レストランで一緒に食事をしましたが、旺盛な食欲には目をみはりました。若者はエネルギッシュです。久しぶりに話が弾みました。

教え子のお墓は、海の見える高台にありました。ここまでは津波はこなかったものの、直ぐ下には基礎しか無い家の敷地が見えました。また、ひしゃげた車も残ったままでした。教え子の家はここの直ぐ下にありました。早くに逃げてここまで来ていれば助かったのでしょうが・・・。
 
「おーい、来たぞ。いやあ、さみい(寒い)なあ!」と一緒に来た中の誰かが大きな声で言っていました。「おーい、来たぞ」はこの津波で亡くなった友達に語りかけたものと思いますが、その口調の屈託のなさに、私たち大人は顔を見合わせて笑ってしまいました。これからの未来を支える若者は、このように元気なのが一番です。辛いことも悲しいこともあるけれど、日々一生懸命働いて、社会の中で役立ってもらいたいと思いました。そして、ここに眠る友達のことを忘れないでいましょう。彼は私たちの心の中で生きるのだから(2012年3月11日)。??????  

 

倒れた電信柱は今もそのまま

水田に埋もれたガレキの撤去作業
(作業は被災集落総出で)

津波の土砂の中から蘇った
ブドウ「あづましずく」

 

 

★ 2011年3月15日、午後から天候がくずれ、雪まじりの降雨となった。この季節になるとよくある天候の変化であるが、その雨は日本に60年以上ぶりに降った3回目の雨。
★ 2007年7月12日発行「植物が語る放射線の表と裏」(鵜飼保雄著)を読む。集団遺伝学に基づいた解析は冷静で好感。今回の事故前に出版された脱原発を主張しない脱原発の書。
★ 「ふくしま」=放射能で汚れた地域のイメージが汚みついた新たな偏見と差別。
★ 想定外の事象;『原発御用学者』は悔恨を懐に被災地を走り、『脱原発運動家』は彼の地で「逃避」を叫ぶ。『公僕』はシェルターに閉じこもって「安全」を宣言する。環境汚染でありながら、「環境」という言葉が使われない「公式」除染指針。
★ 「被災地で生活」する者が欲しいのは過去のレッテルではなく、ともに寄り添う同胞。
(2012年3月17日)

 

 [編集後記] この冬は比較的雪に恵まれました。営業を停止したスキー場を登ってみると、山麓ではカエデなどの広葉樹やアカマツが再生し、2次林の形成が始まっていますが、スキー場の上部では灌木すら見られないところが大半で、標高が高くなるにつれて森の再生も時間がかかることがうかがえました。一方で、飯館村に隣接する花塚山では、人気が途絶え、動物たちの楽園の様相を呈していました。動物たちの放射性セシウムの食物連鎖を心配しています。