福島県の長期総合計画委員会でのこと   佐野一子               

 

 今から10年も前のお話をします。
当時私は県の長期総合計画委員に任命を受けていました。担当は環境問題の方です。終盤に近い委員会の時、私は質問しました。
「原子力発電の方はどう考えればいいのでしょうか」
県の方ではこれを読むようにとぶ厚い冊子を出していました。何回、繰り返して読んでも県の発行物は原子力発電のことは載っていません。浜通りにある発電所は東京電力でやっているわけで福島県には関係が無いものだったらしい。
「自然を利用したもので電力をおこす方法もあるはずです」
私はこう言って席に座りました。そうしたらです。会議が終わって帰ろうとしていた私は「別室で話しがあります」と言われ、みんなと外に出ることはできませんでした。あれどうしたんだろう、私だけがまだ帰れないなんて・・・・。

そして三人の作業服を着た県庁職員だと思うけど三人対一人の形で机に相対しました。何と言われるかと思っていますと

『原子力発電は絶対、安心です』三人が声をそろえて言うのです。
あとは何も言いません。私は余計なことは言うまい!と思っていましたのでハイと言っただけでした。

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311日午後の大震災。浜通りの原子力発電所の爆発がおきて・・・・。
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月になってから、あんなこと言われたっけ。その時の場面がありありと思い出されてきたのでした。
「そういえば県庁の会議の時、こんなことありました」と夫に言ったら「お前もスミにおけないこと言うな」と。
たった『ひとこと』を言うために三人もそろって来たりして。絶対安全なんてあるはずないじゃない。私は原子力発電に関する複雑な思いを改めて感じたわけでした。

自然とお話しながら人間らしい生き方をするためにも“脱原発”しかありません。絶対にそう確信します。
(これを書いた次の朝のニュースで佐藤知事が浜通りの全炉を廃炉にする旨1130日午後に発表するという知らせを聞いた。でもきれいな福島にもどるには2030年かかるでしょう。) 

 

 

 

鹿狼山から  
19 被災地の悲しみ    小幡 仁子

 9月末の日曜日、姉と一緒に久しぶりに鹿狼山に登りました。今年はジャコウソウの花に巡り会うことができました。鹿狼山では登山道脇に1カ所だけこの花が咲きます。時期を逃すと会うことができません。ジャコウとは言いますが側に寄っても良い香りがした試しはありません。でも、薄暗く湿った場所が好きなようで、杉林を控えた登山道の片隅に美しいピンク色の花を咲かせますから、今年もよく咲いたなあと誉めてやりたくなります。
 
 頂上には数人の登山者がいました。中には海に向かって手を合わせている方もいました。お天気が良かったので、海も青々としており、遠くまで見渡すことができました。私と姉も手を合わせました。新地町では津波によって亡くなられた方は100人を超えました。防波堤は壊れたままだし、沿岸部に入り込んだ海水は引けないまま大きな浦のようになっています。今度あのような大津波がきたら、6号国道を軽く越え町の半分はダメになってしまうと、町の誰しもが心の片隅で不安をもちながら生活しています。
 
 鹿狼山を降りる途中で私は同級生のTちゃんとA君に会いました。Tちゃんはこの津波で三男坊を亡くしました。私の次男とは同級生だったのです。保育園から小学校・中学校までずっと一緒でした。Tちゃんの息子も我が家の息子も、食が細くて痩せチビだったので、身長順に並ぶときは一番前を争っていたのでした。子供たちが小学生の時は「このままずっと痩せチビだったらどうしよう」と話したものでした。Tちゃんとは5月のお葬式で会って以来でした。仕事は再開したと聞いていましたが、どんな状態なのかと気になっていました。TちゃんはA君に伴われてゆっくり登ってきましたが、はあはあと息があがっていました。
 「Tちゃん、久しぶりだね」と私は声をかけました
 「ああ、久しぶり。私、血圧高くてね。3キロ位体重が増えて、運動不足だと思ってね、A君に頼んで鹿狼山を登ることにしたの」
 「お父さん(夫)がね、全然家から出ないの。前は買い物でも何でも外に出ていたのに、薬でも飲ませないとダメかなって思って」
 「無理もないべ」とA君がぽつりと言いました。
 「MTちゃんの長男)がね、あんな消防の大変な仕事をしてね。もう、前の仕事の方が良かったのにね」Tちゃんは次々と話しました。
 「M君は消防の仕事の方がやり甲斐あるんでしょうよ」私は言いました。
 M君は故郷新地町にお嫁さんを連れてUターンし、消防士として働きだしたところでした。そこにこの大震災と津波は起きました。M君は弟の捜索を懸命にすることになったのでした。
 「これも運命だったのかしら」Tちゃんはそう言いました。
 話せば涙が出そうで、うなずくしかありませんでした。今度は一緒に山に登ろう、11月頃は鹿狼山の紅葉もきれいだからと言って私たちは別れました。TちゃんとA君はまたゆっくり登っていきました。
息子を亡くした悲しみはそう癒えるものではないけれど、こんな風に鹿狼山を友達と歩き、春には花や新緑、秋には紅葉の中に身を置いてほしいものだと思いました。私たちは生まれたときから鹿狼山が側にあり、朝な夕なにその姿を眺めて暮らしてきました。お天道様は釣師浜から出てきて鹿狼山に沈むものでした。私はTちゃんが鹿狼山に登ろうと思い立ったのが分かる気がしました。
 
 それにしても・・・今回の津波はひどすぎました。Tちゃんの息子、いとこの息子、教え子も亡くなりました。同じ母親の立場として胸が張り裂けそうでした。今年3月4月と鬱々としていたときに、妻を亡くしたというある歌人が言っていた言葉が心にしみました。彼は「私は、人の死というは、その人の存在を忘れてしまったときにくるものと思います」と言っていたのです。ああ、そうなのか、と私は思いました。そして、忘れないでいよう、19歳で逝ってしまったあの子達の笑顔を、いつまでも大切に胸にしまっていこうと思いました。
 今年8月に、私は鹿狼山で初めてイヌブナの実を見つけたので、友達にメールで写真を送ったり、会報に書いたりしました。この日、まだ実はついているかと思い見上げてみましたが、一つもありませんでした。日当たりが悪いせいなのか、それとも見えない上の方には付いているのか。あるいは鳥が啄むのか。自然の中で花を咲かせ、結実し、種子となって地上に落ち、次世代に残るのは気が遠くなるほど極々わずかだと実感しました。
それでも、また来年の春になれば芽吹き、葉を繁らせ、実を付け、紅葉し葉を落とします。イヌブナの種子もいつか実生となり、若木へと成長する日が来るかもしれません(2011年12月18日)。           

 

 

ジャコウソウ

「浦となった新地町沿岸部」 

鹿狼山の紅葉・11月 

 

 [編集後記] 2011年は日本にとり特別な年となりました。311日の地震・津波に引き続く原子力発電所爆発と言う戦後最大の「人災」。いつの時代かと錯覚を起こすような為政者の情報操作。一番パニックを起こしていたのは国民ではなく政府中枢部という皮肉。そして、地に着いた村おこしを積み重ねてきた村民の感情を札束でなでる無神経。現場も見ず、用意された答がないと何も判断できない自称指導者達。放射能汚染という環境汚染に対して縦割りでしか対応できない行政組織。「除染」と言う公共事業に群がるゼネコンや「除染」業者。2012年はしっかりと目をこらして真実を斟酌していかなければなりません。そのためには現場を自分の目で確認することに尽きると考えております。