放射能の食物連鎖   鎌田和子

 

 「残念ですが蝶も汚染された植物を食べれば放射能が体内に取り込まれます。ただし、排泄もされます。その蝶の幼虫を鳥が食べれば鳥も汚染されます。放射能の食物連鎖です。これからは生態学的半減期について注意する必要があると思います。」

これは、私の疑問に対するS氏の回答です。

 

昨年の夏遅くに、わが家のウマノスズクサに産みつけられたジャコウアゲハの卵が孵化し、そのうちの二匹が蛹化しました。そして越冬。寒風や雪に耐え、3月11日の地震や原発事故の影響をちらとも受けずに、5月半ばの陽気のいい日に羽化しました。二頭とも雄でした。その雄蝶たちは、2週間ほど、庭先を飛び回っていました。多分、雌蝶を探し求めていたのでしょう。そんなある日、どこからかジャコウアゲハの雌が庭のウマノスズクサにやってきたのです。この植物特有の臭いをかぎつけてきたのでしょうか。その雌蝶はどこで産まれたものやら。食草のウマノスズクサが生えているところだということは分かりますが、ウマノスズクサはどこにでも生えているものではないのです。阿武隈川の伊達橋付近から飛来したのかしら? 蝶って、そんなに遠くまで飛ぶものなの?驚き感心しながら雌蝶の動きをよく見ていると、緩やかに飛び、葉に止まり、ひらひら飛び上がっては、また別の葉に止まる。そんな動きを繰り返しています。写真@は、産卵の瞬間かもしれません。葉裏には3個の卵が付いていました。「今夏も、またジャコウアゲハの観察ができる!」と喜ぶ一方で、「蝶たちにとって放射能の影響はどうなのかしら?直ちに影響はない?それとも小さい生き物だから、直ちに影響を受けるの?」など、次々と疑問がわいてくるのでした。

 

前段のSさんの回答は、そういういきさつがあってのものです。これから、自分の庭先で、蝶の生育を観察することは、そのまま「放射能の食物連鎖」を観察することになる!? Sさんが言う「生態学的半減期」なるものが、何のことなのか、私にはよく分かりません。が、一つだけハッキリと分かったことは、私たち人間も、蝶と同じように放射能に汚染された環境の中で生活していかねばならないということです。すでに、「放射能の食物連鎖」は始まっています。

 

悪夢であって欲しいようなこの現実は、決してもとどおりにならない。そのことに対する憤りや、やりきれない感情を、鎮めてくれたのは、ほかでもない、ウマノスズクサの花と葉裏の卵でした。「『馬の鈴』のような果実に、いつなるの? この花には、虫を呼ぶ仕掛けがあるらしいけど、どうなってるの?」と、毎日毎日、葉上の花(写真A)を眺めたり、孵化したばかりの幼虫たちが無事に生長しているかを、食痕を頼りに匹数を数えて確かめたり。そんなことに夢中になると、「放射能の食物連鎖」をいっとき忘れてしまうのでした。   (2011.6.22)

 

 

 

 

ジャコウアゲハ

 ウマノスズクサの花

 

 

 

鹿狼山から  
18 被災地その後    小幡 仁子

 

3月11日の東日本大震災の津波で私が住む新地町は甚大な被害を受けました。鹿狼山から眺める新地町はどのようになったかと思い、久しぶりに登ってみました。あんな震災があっても季節は巡り、タマアジサイが花開いていました。イヌブナが珍しく実を付けて、サルトリイバラ・シラキ・キブシ・マタタビなども緑色の実を付け、山は実りの季節に入っていました。 

 

さて、頂上から見る町はずいぶん変わっていました。防波堤は決壊し、海水が入り込んでそのまま大きな池になっていました。今回の地震で地盤沈下したところに海水が入ったのか、もともと低い土地だったのか、確かあの辺りは駅と海の間で葭(ヨシ)が生える湿地が広がっていた気がしました。釣師浜漁港の跡も分かりました。あの周りに沢山の民宿や人家があったはずですが、今では何もないのが分かりました。

 

これからはあの土地はどうなるのでしょうか。海水が入り込んだ所は放って置けばやがては葭で覆われるのかもしれません。私は子供の頃の風景を思い出しました。今、発電所のある場所に私の家はありました。「ダイハイスイ(大排水か?)」という川があって、その川の東側は葭の原がずっと海の方まで広がっていました。川の西側は田んぼが広がっており、そこは湿地を土地改良して田んぼにしたのです。私の記憶の中では、地面を掘り起こしてそこに木を束にした物を並べて入れていました。父は「暗渠(あんきょ)をする」と言っていました。暗渠は縦横無尽に並んでいましたから、その労働力は大変なものだったと思います。私の祖父は二本松の東和村からこの土地に開拓農民として移り住みました。山間の村では自分の土地を持つことができないので、この地に来たと聞きました。最初は米も碌に取れなかったが、苦労して土地改良を重ね、米がたくさんとれるようになったということでした。父は裸足で田植えをして、牡蠣貝の殻で足に怪我をし、田植えができなくて困ったことがあったと言っていましたから、元々は海だったのでしょう。

 

そんな苦労をして作った田畑も今は発電所の敷地となり、見る影はありません。発電所を作るときに発掘調査をしたところ、私の家は、大きな塩溜(しおだめ)の上に建っていたということでした。昔々は、海水を塩溜に入れて水分を蒸発させ、釜で煮て塩を作ったそうです。やがて塩を工場で作るようになり、塩溜は不要になって埋め立てられたのでしょう。敷地の中には大きな塩業会社跡地もありました。戦時中に爆撃を受けて、廃墟となって残っていました。朝鮮人労働者が沢山働かされていたそうです。また、海岸も子供の頃は砂浜が延々と広がっていて、海に入るまでに「あちち(熱い)」と言って入った覚えがあります。ハマヒルガオの咲く美しい海岸でした。それも相馬港ができてから潮の流れが変わり、砂浜はなくなって、消波ブロックの並ぶ防波堤となりました。

 

人は自然をどんどん変えて行き、便利で豊かな暮らしを手に入れました。しかし、今回の津波で、海岸の建造物は跡形もなく壊れ、流されてしまいました。また、大切な家族や友人をも失ってしまいました。私たちは、本当は家を建ててはいけないところに家を建て、開発すべきでない所を開発してきたのかも知れません。知人は、自分の家の字名は「原」であるが隣接地は「木船」で、昔は浦のような所だったのかも知れない、と言っていました。そこは6号線の西ではありますが、津波が到達しています。自然は、元ある形に戻ろうとしている、そのように思えてなりません。人間は無理を続けてきたのではないでしょうか。これからどうしていけばいいのか、以前と同じように作り直すのがいいのかを、考えなくてはなりません。

 

新地町では今年のお盆はたくさんの家で新盆を迎えました。私の次男は仙台で学生生活を謳歌し、音沙汰がありませんでしたが、ひょっこり帰ってきました。813日の夕方に実家の父母と一緒にお墓参りに行きました。お墓は震災で倒れはしましたが、津波は免れたので直すことができました。父が次男に「じいちゃんが骨になったら、この石を動かして土の所に空けてくれ」と言うのに、「石、重いだろ」と答えていました。その後、母の実家のお墓にも寄りました。次男が行きたいと言ったのです。いとこはこの津波で一人息子を亡くしました。次男の同級生でした。次男は「じいちゃん、どうやって線香に火をつけんの?」と言って、やってもらっていました。墓誌銘には新しく名前が彫られ、19歳とありました。次男は、いつもは形だけ頭を下げて終わりなのに、真面目な顔をして手を合わせていました。それを見て、胸が熱くなりました。私は大切な息子を失わずに済んだ、この子には熱い血が流れ、息をして私の側にいてくれる。それが希有なことのように、有り難く思われました。母も「泣いて泣いて、諦める他なかったなあ」と、溜息をつきました。そして、お墓に向かって「会いに来たがんねえ」と話しかけていました。

 

あれから5ヶ月が過ぎ、お盆がきてお墓に手を合わせ、私も次男もやっと心の整理が付いた気がします。                          (2011年8月31日)

           

 

 

珍しくイヌブナが実を付けた

海岸部にできた大きい池