ノウゼンカズラの果実   鎌田 和子

 冬枯れの空に、果実を見つけました。…フジの果実にしては、さやが短い、何の実だろう?…その木は、人家の庭の範囲内に生えていますが、道路との境に石を二段積んだ垣があるだけです。道端の樹木を観察するような気安さで、さっそく、さやが落ちていないかと足下を探しました。ありました!濡れた落ち葉の中に、ふくらみのある『さや』を見つけました。そのさやの中に、フジマメに似たタネが並んでいるような気がしていましたが、開けてみると、中は腐ってました。それではと、木の枝の、乾いたさやに手を伸ばし、中を覗きました。なんと空っぽ!こっちのほうはどうかな?これも空っぽ。ナンダ、もう全部タネがはじけてしまったのかしら、と、ガッカリしながら3つめのさやを覗いて、驚きました。さやの中には、薄い羽のようなタネが重なって、ぎっしり詰まっていたのです。こんなに、タネを、秩序正しく、精巧に重ね合わせる術は、自然の神秘としか言いようがありません。折りからの風に、そのタネたちがふわっと飛びそうになって、慌ててさやを閉じました。見ると、カブトムシが羽をしまい忘れたときのように、さやから褐色の翼がはみ出ています。ハッ!さっき下に落ちていたさやの中身は、腐っていたのではない。ただ濡れていたからそう見えただけなのでは?そう気づいて、早とちりな自分を笑ってしまいました。そして、「この樹木は、冬芽や木肌の特徴からノウゼンカズラに違いない。実がなるなんて知らなかった。図鑑で確認しよう。」と、急いで家に帰りました。

まず、「樹に咲く花」(山渓ハンディ図鑑)を、わくわくしながら開きました。けれど、期待していた果実の写真の掲載はなく、解説に、ノウゼンカズラの果実は「 日本では結実しにくい」と、述べているだけでした。「ふ〜ん、そうなのかあ。…エエッ!…ということは、今日私が見た《さや》は『結実しにくい』ノウゼンカズラが『結実したもの』ってことなの!?…ホントに本当なの?…これってすごいことだよ〜。ヤッター!」 飛び跳ねたい気分でした。 

多田多恵子さんも、「種子たちの知恵」という本の中で、「…タネは無尾翼グライダーの形で滑空するが、実を見る機会は少ない。」と述べていました。やっぱり実がなるのは稀なことのようです。そのことに興奮する一方で、私はこのタネの舞い散り方に興味を感じていました。タネを放り上げたとき、キュッキュッキュッと左右に向きを変えながら落下する様子は、これまで見たことのない《変わった》眺めでした。それを、多田多恵子さんは、「無尾翼グライダーの形で滑空する」と表現していたのです。なるほど!あの幾何学模様のような舞い散り方は『グライダーの滑空』なのか! 風を利用して移動するタネにもいろいろありますが、それぞれの植物が、着地に工夫をこらしているのかもしれないと感心しました。

ほんの気まぐれに散歩コースを変えただけなのに、ノウゼンカズラの果実に出会う道を選んでいたことが不思議でなりません。『犬も歩けば棒に当たる』のたぐいなのでしょうけれど、しばし興奮する出来事でした。  (2011.1.14)

 

 

 

ノウゼンカズラの種

ノウゼンカズラの果実 

ノウゼンカズラの果実 

 

 

 

鹿狼山から  
17
 被災地より     小幡 仁子

 平成23311日(金)、東日本大震災は起こりました。岩手・宮城・福島の太平洋沿岸は地震後の大津波によって、甚大な被害を受けました。ここ、鹿狼山の麓の新地町も、防波堤は決壊し、釣師浜・大戸浜の町並みは巨大な津波に襲われて、跡形もなく消えてなくなりました。夏は海水浴客で賑わい、子供の歓声が響き、魚を焼く匂いがし、民宿もあって、夏の風物詩が感じられる所でした。人家も沢山あり、昔から漁業に関わる仕事をする人たちが住んでいました。津波の後は膨大な瓦礫の山が残りました。震災から2ヶ月たった今も、国道脇の田んぼには、津波で流されてきた船が残っています。津波は常磐線を越え、国道6号線に到達する勢いでした。海抜の低いところは6号線をも越えて人家を飲み込みました。常磐線新地駅は「くの字」に折れ曲がった電車とともにテレビに写りました。駅舎はなくなり、ひしゃげた鉄橋だけが残りました。常磐線は4つの駅が津波で流され、再開の見通しはありません。
 新地町は人口8300人あまりの小さな町です。今回の大震災で、亡くなった方は93名、行方不明者は21名でした。(5月20日現在)住宅の流出や全壊・半壊は数知れません。この津波で、私の次男の同級生10名が流され亡くなりました。この春31日に高校を卒業し、今年19歳になる学生達です。みんな、海岸近くの自動車教習所に通っていたのです。就職や進学が決まり、それぞれに自動車免許を取って、4月から会社や学校に通う予定でした。昨日も次男の友達のお葬式がありました。御会葬礼状には「去る311日の東日本大震災の大津波により、享年二十歳の生涯を閉じました。息子はいつも明るく将来に夢をもち、多くの友人たちと共に楽しい学生生活を送ってきました。共に歩み支えてくださいました皆様に心より感謝申し上げます」と書かれてありました。遺影は幼さの残る笑顔で、それがまた私たちの涙を誘いました。
 大地震の後、教習所のある宮城県坂元地区では防災無線が壊れて、津波の警告はなかったのですが、パトカーが「津波が来るから避難してください」と言って回ったといいます。親の中には、「津波が来るというから早く避難して」というメールを子供に送った人もいたのです。それに対して「教習所で送ってくれるって」という返事があったということでした。地震から津波が来るまで40分はありました。教習所から国道6号線までは2キロ位の距離です。早くに判断して国道まで逃げれば、津波に巻き込まれずに済んだのです。歩いても間に合う距離でした。学生達は送迎の車の中で待機していました。そして、全員が津波に巻き込まれて死亡しました。たった一人だけ助かった学生は、大木が車の窓ガラスを割ったので、そこから脱出して泳いだのです。その学生から聞いて、誰が一緒だったかが分かったのでした。私のいとこの子供は、その助かった学生の後ろにいたそうです。いとこは地震の当日は「まだ帰ってこない。連絡がとれない」と言って無事を信じていました。翌日から、避難所回りをしていました。もしかすると大怪我をして、口がきけない状態なのではと病院回りもしたのです。学生達は次々と変わり果てた姿で帰って来ました。いとこの子供が見つかったのは10日も過ぎてからでした。瓦礫の中にいたそうです。自衛隊の人がチェーンソーで瓦礫を切って探し出してくれました。「見つかって良かった。やっと家に帰って来てくれた」と叔母は泣きながら言っていました。お棺の上には真新しいヘルメットが載せられていました。4月からはこのヘルメットを被って仕事をするはずだったのです。子供に逝かれた母親ほど悲しいものはありません。あれから2ヶ月が立ちました。今も側にいる気がすると言っていました。悲しみは日々新たなのだと思います。あのような大津波が押し寄せてこようとは誰も予想だにしないことでした。避難勧告を本当にせずに家に残った人は、津波の犠牲者になってしまいました。しかし、教習所という立場上、パトカーの避難勧告があったというなら、すぐに応じなければならなかっただろうとは誰もが思うことです。親たちは訴訟を起こすようです。
 新地町では毎日、自衛隊・消防隊・警察隊が横一列にならんで、行方不明者をくまなく捜索してくれました。町長さんは、防災無線で、最後の一人まで捜索し家族の元に返します、とか、本日はダイバーが海に潜って捜索していますなど、状況を逐一町民に知らせてくれました。5月8日までそれは続いたのです。まだ、行方不明者はいるにせよ、手を尽くし、やれるだけのことはやったという思いが町民にはあります。また、大切な家族や友人を失ったけれども、みんなでいたわり合い、悲しみを分け合うことができました。地域共同体のつながりを感じました。しかしながら、原発事故により、地震後すぐに避難命令の出た浪江町や双葉町では、捜索もできませんでした。4月に入り、新地町では捜索が一段落した頃に、浪江町町長・災害対策部長がテレビに出て、行方不明者名簿を持ち、「この名簿の中に知らない人はいない。捜さなくてはならないのに、浪江に帰ることさえ叶わない」と泣いておられました。浪江町も新地町と同じように小さな共同体です。町民の結束は固く、強い絆で結ばれていると思います。どんなにか無念でしょう。      
 今、福島県の半分は地震・大津波の後は放射能という目に見えない魔物に脅かされています。私の勤務する学校にも、富岡町の学校が閉鎖になったために、児童生徒が「分教室」という形で通ってきています。南相馬市も30キロ圏外の学校に児童生徒を集めて授業をしていますから、一つの学校に5校分位の生徒がいます。文部科学省と県教委育委員会が3.8μSv/h以下の学校は屋外活動をして差し支えないという、暫定的な基準値を各学校に通達しました。また、年間積算量120mSvまでなら人体に影響なし、ということを言って、その後20mSvは高すぎると反論されると、1mSvを目指しなさいということに変更になりました。全くどう信じていいのか分かりません。児童生徒の健康は守らなければなりません。しかし、年齢・発達段階に応じた教育をしようと思えば屋外の活動も必要です。相馬地方は線量が低く(新地町は0.3μSv/h以下)私たちは、線量計の計測の結果などから、一日50分程度の屋外活動を取り入れることにしました。なるべく線量の少ない場所を選び、土埃をすわないようにする、などの注意事項付きです。
 2ヶ月たった今も、原発事故は一進一退で埒があきません。収束は来年になるのでしょうか。学校の教育活動も色々と制限されます。子供達に、豊かな自然や、明るい未来を約束したいところですが、それは可能なのかどうなのか。ちっとも先が見えません。人間はより快適で便利な生活を求め、沢山の電力を必要として原子力発電所を作ってしまいました。今では手に負えない巨大な怪物と同じです。
 それでも、私たちは前に進んで生きて行かなくてはなりません。学校では子供達が屈託のない笑顔で笑っています。鹿狼山の麓では田植え後の青々とした田園風景がいつもと同じように広がっています。津波が来たところは作付けをしていませんが、開拓農民だった祖父は牡蠣貝の出るような湿地を田んぼにしたと言っていましたから、土地改良をすれば、元のようになるでしょう。しかし、放射能汚染がないといいのですが・・・。実りの秋に、食べることができない米を収穫することになったら最悪です。
 不安は尽きません。原発が一日も早く収束することを願うばかりです(2011/05/28記)。

           

津波で流された電車

瓦礫の山

鹿狼山と田園風景