鹿狼山から  
4 次世代を担う子供たち     小幡 仁子

鹿狼山(かろうさん)は公園のような山なので、幼い子供から小学生の5,6年生くらいまで、いろいろな子供たちが登ってくる。幼い子は、母親に小さな手を引かれたり、父親の背中に背負われたり、途中でおやつなどをもらいながら、ゆっくり登ってくる。ちょっと大きくなると、大人の先になって走ったり、棒などを振り回しながら元気に登ってくる。里山に子供の声が響くのはいいものである。  
昨年秋のことだった。行政区で年に一度ある鹿狼山登山・芋煮会ということで、祖母に連れられて5歳くらいの男の子がいた。とても元気な子でちょろちょろ動くから、おばあさんは気が気ではないようだった。頂上から下りるときに「ばあちゃんと汽車ぽっぽしよう」という話でもまとまったのか、おばあさんは紐の輪を孫にかけて歩き始めた。孫が道から転落したりしないように気を使ったのだろう。私の目には、そんなことをせずとも達者なのは孫のほうで、足元が危ないのはおばあさんのように思えたけれど。
おばあさんに声をかけると、「いやあ、この孫には参ったー」という。「元気があってよいじゃありませんか」というと「はー、山の上でも何だか宝探しだとか言って、石ころひろいしてんだあ。つるつるした石を拾ってなあ。鹿狼山、海だったんだなあ」という返事。傍らには、なかなかの面構えの孫が手にしっかりとその宝物を握っていた。「おばちゃんに宝物見せて。お願い」と言うと、握りこぶしを開いてくれた。ちょっと汚れたお手々の中には何の変哲もない茶色の石ころが2つ。確かに海にある石ころのようにつるつるしていた。「すてきな宝ものね」と言うと、嬉しそうににこにこしていた。
          
新地町は16の行政区があって、それぞれの地区で春には花見、秋には芋煮会などの行事をもつ。また、空き缶拾い・清掃活動神社の夏祭り・秋祭りもある。祖父母が孫を連れていろいろな行事に出かける姿は珍しくない。私の息子たちも小さいときは、祖父母の世話になって鹿狼山を登ったものである。中学生になってからは部活動や、友達と遊ぶのがよくなって、親からも離れ、まして祖父母と一緒に地区の行事にでるということはなくなった。それでも、祖父母と過ごした思い出は貴重な経験として残っているに違いない。
 小学校も高学年になると、体力がついてくるのか、保護者は後ろの方にいて、子供達だけのグループで登ってきたりする。人も多く、整備されているので離れていてもそう危険はない。そして、子供たちは頂上にある鹿狼山神社の手前で必ず立ち止まる。そこは、鹿狼山で一番高度感があり、眺めのよい場所だ。東に大海原がずっと広がり、道路や町並み、森や池や田んぼなどが一望できる。
        
子供達はこの場所に来ると「うわーっ、すげえぞー」と声を上げ、しばし呆然としてこの眺めに見入る。私も鹿狼山の中で最も自慢できる眺めだと思っている。水平線が緩やかにカーブしており、地球が丸いということも実感できる。時折、船が見えることもある。
しかし、このような眺めも大きな木は伐採して、ツツジなどの低木を植栽し、手入れをしているからこそ得られるものである。昔、私が子供のときにこの眺めがあったかどうかは全然覚えていない。ただ、頂上付近は広い萱の原だった。その萱の原を掻き分けて頂上にたどり着いたことだけは覚えている。登山道は昔からあったはずだから、萱を掻き分けて登る必要はなかったと思うが、近道をして誰よりも早く登ろうとしたものか。鼻の中が萱の埃で黒くなったことも覚えている。昭和30年代は萱は必要なものであったから、こんな急斜面でも植えたのであろうか。そのころにこんな展望を得るために山を整備するとは思えないから、大海原は見えなかったかもしれない。
商売がらか、子供が好きである。無垢な子供達、無邪気な子供達を見るたびに、この子供達の将来が恵まれた明るいものであってほしいと思う。鹿狼山を登る子供達は、長じてこの山をどう思い出すだろうか。一緒に登った祖父母や家族のこと、整備された登山道、素晴らしい眺望、折々に咲く花や小鳥たち、コナラ・ケヤキ・シデなどの落葉広葉樹。心の片隅にでももち続けることができるであろうか。
このような美しい里山を保持しようと思えば、手入れは続けていかなければならないだろう。どの程度手を入れていくかが問題である。現時点でも、これは整備しすぎだろうと思われる部分がたくさんある。自然と人間の生活とをどのように折り合いをつけていくかは永遠のテーマである。私達は、次世代の子供達へ豊かな自然を残すことを忘れてはならない。

宝物はつるつるの石

 鹿狼山の頂上直下からの眺めを楽しむ子供達

 

風景印の旅(1)    鎌田和子

これは2007年の冬から始めた「風景印の旅」がきっかけで、私自身に起こった興味・関心の移ろいに着目した話です。「風景印の旅」というのは、各地の郵便局の風景印を集めて、さながら日本の名所・旧跡を旅している気分を味わおうというものです。

どちらかというと、私は樹木は落葉樹が好きです。照葉樹に目を向けることはあまりなかったように思います。ところが、兄が送ってくれた「風景印」の図案に「天然記念物・アラガシの木」というのがあったことから、アラガシとはアラカシのこと?アカガシというのもあるけど、アラカシとアカガシはどう違うの?と図鑑を調べたり、会報「高山」の60号と61号に会員の山内さんの「福島のもうひとつのブナ科林帯」と、「東北照葉樹の回廊『みちのく海の常葉路』の夢」という文章が載っていたことを思い出して、読み返してみたりするなど、急に照葉樹に対する興味が喚起されてしまいました。

そして、姉の嫁ぎ先の「医王寺」(飯坂平野)に福島市指定の天然記念物・シラカシの木があったことを思い出し、そのシラカシを見に出かけたのです。ずっと以前(昭和41)に天然記念物に指定されたことを知ってはいたのですが、きちんと立て看板を読んだり、その樹木を眺めたりしたことはありませんでした。それは巨樹でした。寛永の時代に植えられたものだそうで、推定樹齢300年とか。「高山の原生林を守る会」で、よくブナの巨樹を観察し「う〜ん、すごいっ!」と眺めていましたが、シラカシの巨樹も見事なものでした。痛々しいほどに手当てされている古木に胸がつまる思いがしました。根元にドングリをいっぱい落としているから、営みは続いているのでしょう。拾って見ると、巨木のシラカシに似つかわしくないような、小さくてまん丸い実。思わず「かわいいっ!」と声を発してしまいました。

浪江町幾世橋郵便局の、一枚の「風景印」から、私の新たな「照葉樹林の旅」が始まるような予感がしてくるのでした。(2008.3.14)


医王寺のシラカシ

 

孤高の樹    伊藤順子

それぞれも巨大なブナが思い思いに口笛を吹き詩を口ずさみ雲を眺めている中にその樹はあった・・・。媚びず、おもねず、支配せず、静かに眠るように・・・。起こさないようにそっと近寄ってみると、今まで見たどのブナよりも太く、何よりも高く果てしない宙へ枝を伸ばしていた!

まるで鳥になろうとしたイカロスのように・・・。あるいは雛を守ろうと敵に立ち向かう親鳥のように・・・。あるいは、鎖に繋がれたアンドロメダのように・・・。背中の痛々しい傷跡は孤軍奮闘した親鳥の名誉の負傷か・・・。焼け焦げた翼の跡か・・・。カシオペアならぬ人間の奢りの犠牲となったアンドロメダの悲鳴か・・・。空気までもがモスグリーンの神々しい森の中ふと十字架に傷ついたキリストを思った・・・。

巨木が当たり前のように育つ豊かな森でも、広い空間から見ればほんの小さな森・・・。しかも直ぐそばまで故なき開発の手が伸びる形を変えた踏み荒らしが襲う・・・。何も出来ない無力な自分が居る。ただ、このブナの森をそして孤高の樹をないがしろにする輩を私は許さず軽蔑し続けるだろう、地の果てまで。


 

穂積さんを偲んで    河上鐐治

 白銀に輝く一切経、吾妻小富士を右に、箕輪山を左に従え、黒々とした高山は長く続く尾根を麓まで伸ばしていて、そこには伐採された痕が1点もなく完全に森林に覆われています。これは穂積さんの努力によって残された自然遺産であります。

 20年前大型開発に乗り遅れまいとする福島市は、地域活性化の美名の下、高山の国際的スキー場建設を打ち出しました。これに対して自然環境破壊を憂える市民が「高山の原生林を守る会」を結成して反対運動を展開し、その初代代表に選ばれたのが穂積さんでした。代表としての穂積さんの活動は目覚しいものがあり、署名活動にはあらゆる知己を頼り、どこにでも自転車で出かけました。当時私は同じ町内に住んでいましたので、朝早く又は夜に参られ活動の現状などを話して行かれました。打ち合わせ会や会議ではわが道を行くで、決められた時間などは全く関係なく、自分の思うところを情熱をもって説明報告していました。穂積さんの持つカリスマ性はこの寄せ集めの団体をまとめ牽引していくには必要で、多少の脱線は許されるものでした。

 当時種々の名目を挙げて乱開発に精を出した国や治自体は、今は環境保全を盛んに唱えています。これに対し最初から故郷の自然を守り、これを後世に伝えようとした当会のリーダーとして活躍され、その基礎を築いた穂積さんに改めて敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします(2008.2.12)。


2回観察会「高山山麓ブナ観察会」参加者

に囲まれる穂積氏(前列:1987.10.18

 

穂積正さんの出された本について    奥田 博

高山の原生林を守る会の初代会長であった穂積正さんが2008年2月厳寒の日に逝去された。代表時代は高山の会をグイグイと引っ張り、スキー場建設を断念させる活動で常に先頭に立っていた。穂積さんの残した論文や書籍が数多くあることは知られていない。この会報でも紹介してきたが、私の知る限りでの本を簡単に紹介したい。

■ブナが危ない!東北各地からの報告(無明舎出版)1989年3月10日:東北各地の自然保護運動を「ブナ」という切り口での報告。9箇所から9人が現状を訴える。穂積さんは「高山スキー場建設はいかにして断念したか」というタイトルで24ページほどの報告を寄せている。不思議だったのはタイトルで、スキー場建設が断念したかのような印象を持たれる。現実は、この本の発行から10年以上経って高山スキー場は正式に断念されたのだった。

◆福島の山野草(自費出版)1995年6月30日:20年かけて539種類の山野草を一冊にまとめた。写真と解説を一点一頁に収めたもの。本人の信夫山から高山までの調査によるもの。

●歌集「信夫野」(自費出版)2000年1月15日:700首余収録。「高山回顧」には激怒の24首が詠まれている。「開発を強行されんか阻止抵抗吾キャタピラーの下敷死なむ」

●歌集「教育散歩」(自費出版)2002年3月1日:90歳記念出版。387頁の大作。「高山の自然保護の感謝状無けれど吾は何も悔いなし」

■「高山の聖水」(自費出版)2003年11月30日:高山の自然保護運動前半部分を描いたもの。彼は添えられたあいさつ文に「水の大元を絶やすことは絶対出来ない、その信念のもとに、反対運動をした実践記録であります。わがふる里が緑と水の潤う美しい郷として永遠に栄えることを乞い願い、本書をお読み頂ければ幸甚に存じます」。これは穂積さんの「聖水」に対する思いであろう。

●歌集「寂光」つぶやき(自費出版)2005年12月20日:穂積さん最後の歌集。「原生林の行方」には5首が詠まれている。「高山の開発のあとの災害を予測せずして実施はあらじ」

 

編 集 後 記

■「高山の原生林を守る会」初代代表の穂積正さんがこの2月に逝去された■会創立当時、会計と会報を担当していた私は、穂積さんの家に伺う機会が多かった■息子さんと同年代ということで、奥さんにはとても優しくしていただいた■どちらの提案か忘れてしまったが、鳥子平から土湯までの高山の登山コース沿いに植生調査をしようと言うことになった■秋も深まった頃に、穂積さんの息子さん(穂積正一氏)と医大生のWさんが加わり、吾妻小舎一泊で高山を踏査した■その時のメモが、私の高山植生調査の原点になった■後で知って驚いたことだが、私の両親は穂積さんの教え子だったらしい■私は、生徒として縁があったわけではないが、山を登るだけの対象とみていた私にライフワークとしての森林植生調査に目覚めさせてくれた恩師であることは間違いない■穂積さんから引き継いだ高山の自然植生をこのまま次の世代に渡していきたい(MS記)。


高山山頂三角点にて(1987.10.4)

この三角点は、現在は発達したチシマザサ群叢
の中に埋もれている