20周年記念寄稿集 |
20周年に寄せて 高橋淳一 |
「観光の振興は国策である」「国際級のスキー場を開発し地域経済を活性化する」20年前「高山」にスキー場を開発する際、福島市など関係者からの発言内容であります。推進派、反対派と市民同士が敵対し、誹謗中傷が飛交う中、全会員が一丸となって、スキー場開発の白紙撤回署名活動に奔走し、現地調査や報告書、書籍出版に情熱を燃やしたことが蘇えって参ります。そして、観察会では多くの人に出会い、思いを伝えることが出来、自身も多くのことを学ぶ機会となりました。しかし、一方では登山道の裸地化や登山者の心無い行為に心を痛め、関わり方について再考する機会ともなり、後に湿原の保全活動や植林作業などのボランティア活動に発展することとなりました。20年、会員の皆様を始め多くの皆様に支えていただき、活動をこれまで継続できました。そして、スキー場開発を始めとする懸案事項はほぼ解決解消となりました。改めて感謝するしだいであります。 |
森 佐藤久美子 |
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高山を守る会20周年おめでとうございます。 |
高山の森林植生(土湯〜高山山頂) 佐藤 守 |
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私は、1987年に高山東山麓斜面の樹木分布について調査した結果をまとめ、1988年11月発行の「東北の自然」臨時増刊号「高山」にて報告した。その後も、高山山域を散策し、植生調査を継続しており、これまでにコケ類を除き、400種近い植物の植生を確認している。「高山の原生林を守る会」設立20周年を期にこれまでの調査結果の一端を紹介することにする。対象地域は上記の報告より山麓を下り、男沼林道のゲート周辺からとする。これは、この一帯から高山山頂まで、森林植生の変遷が明確で森林の成り立ちやこの地域の自然度の豊かさについてより深い理解が可能となると考えたためである。 なお、本稿の植生区分にあたっては基本的には環境庁自然環境保全基礎調査区分を参考にしているが、呼称については適宜、総括的にとらえやすい用語に変更している。また本稿は調査の途中経過としての備忘録であり、未定稿である。予め御了承頂きたい。 |
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a 湖沼周辺林 女沼、仁田沼、男沼から栂森東斜面にかけては、湿地帯が散在し、その周辺にケヤキの大木が点在する。本来は湿地林に分類され、湿地林の代表樹種であるハンノキ林と混然するところと明らかに植生を異にするところが見られる。 コナラやクマシデ、アカシデ、ヤマナラシ等で構成される森林の林床ではヤマタイミンガサやリョウメンシダが多く植生し、湿地にはツルネコノメソウ、ネコノメソウ、オタカラコウ、コンロンソウ、クルマバソウ、ニリンソウ、ズダヤクシュ、樹木ではヤブデマリ、オノエヤナギ等が特徴的である。また、秋にはヤマトリカブト群落を確認することができる。谷地平で見られる変種オクトリカブトが立ち性であるのに対し、この一帯のトリカブトは草姿が横に広がり、葉の切れ込みもオクトリカブトよりは明らかに深くヤマトリカブトの基本的特徴に酷似する。 林縁に近いすこし、乾いたところでは春にはヒトリシズカやフタリシズカ、シャク、スミレサイシン、シロバナエンレイソウ、夏から秋にかけてはアカソ、フシグロセンノウ、オオバショウマ、タマブキ、キバナアキギリ、シラネセンキュウなどの花が咲く。またシダ類ではイヌガンソクがよく目立つ。この森林では、個性的な樹木であるアワブキとコクサギも認められる。カエデ類ではチドリノキが特徴的でほかにヤマモミジ、メグスリノキ、オオモミジ等が混生する。湿地帯から離れるに従い、コナラやミズナラ、ブナ、ヤマグリを中心とする森林に移っていくがその明るい林床ではカタクリが大群落を形成している。 仁田沼の中心部にはハンノキ、男沼上部の林道周辺ではケヤマハンノキがまとまって植生する(若いケヤマハンノキは肥料木として植林された可能性も否定できない)。湖沼中では、ミズバショウ、ミツガシワが群落を形成し、周辺の湿地帯ではキクザキイチゲ、カタクリ、ニリンソウ等のスプリングエフェメレルが大群落を形成している。 男沼湖畔やその上部にある小さな沼を水源とする沢に隣接する林道沿いには、カツラの老木なども点在する。その付近ではヤグルマソウ、ウワバミソウなどの典型的な渓谷植物が見られる。また、比較的珍しいシダ類のハクモウイノデやオシャクジデンダなども観察できる。 樹木類ではケヤキ、ウリノキ、カマツカ、コブシ、ハクウンボク、サワシバがこの一帯に独特の植生である。 |
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b ミズナラ−クリ林 上記、高山山麓の湖沼森を包括する森林である。その大半はアカマツやヒノキの植林地となっており、自然植生が認められるところも伐採後の2次林である。林中には炭焼き釜跡なども確認でき、人間との深い関わりを感じられる。福島県内においてブナクラス域下部に広く見られる落葉広葉樹二次林。植生種は太平洋側的要素が多い。頻度は低いがブナも散在する。 極めて局所的であるが確認できる植物も多種に亘る。その中で、この一帯の植生上の特徴を標徴するのはナツツバキとミヤマツチトリモチでナツツバキは栂森山頂付近から高山側では植生が確認できない。ナツツバキは荒川を挟んだ野地側では普通に見られるので栂森山頂が植生上の境界と見られる。ミヤマツチトリモチは気温の低い雑木林に生育しカエデ類やシデ類の根に寄生する植物であり、運がよければ大群落に遭遇することがある。この辺りで確認できる個性的な樹木としてはカラスシキミ、アサダ、ヤマウコギである。いずれも林道沿いで観察できる。 c ミズナラ−ブナ林 高山登山口から瀬峰を経てフンドシに至る緩斜面に広がる森林である。優占種は、ミズナラで林中のあちこちでミズナラの大木が認められる。特に振子沢には高山山麓随一と見られるミズナラの老木が、かろうじて生命を留めている。ブナの壮木がミズナラと隣接している景観も見られ、ミズナラからブナ林へ遷移する過程にある森の営みを実感できる。局所的にオオヤマザクラ、ツリバナ、ハリギリ、オノオレカンバ、カジカエデ、ヒトツバカエデなども確認できる。 ブナとミズナラの高木が樹冠をさえぎるため林床の植相は豊かではないが、エゾユズリハ、ヒメアオキ、ユキザサ、マイヅルソウ、ツルアリドオシ、チゴユリ、エンレイソウ、ヤマタイミンガサ、オヤリハグマなどが観察できる。またシダ類ではシシガシラが代表的で他にオシダ、ジュウモンジシダ、ヤマイタチシダなども確認できる。 林縁などの日当たりの良いところではトウゴクミツバツツジ、レンゲツツジ、ノリウツギ、ナンブアザミ、リョウブ、エゾアジサイなどの花が季節の移り変わりに応じて咲く。腐生植物ではギンリョウソウがこの辺りからオオシラビソ林まで植生する。また、夏場の乾燥した林床ではアキノギンリョウソウが少数ながら植生する。的場川ではダイモンジソウがこの一帯を特徴付ける植物であり、他にズダヤクシュ、ツルネコノメソウなどが植生する。 |
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d ブナ−チシマザサ林 フンドシから森林生態系保護地域保全地区の標識が立つやせ尾根辺りまでは、ブナの壮木が林立するほぼ純林的なブナ林である。なおこの森は1,140m付近のキタゴヨウの下限から1250mのコメツガの下限とほぼ一致する。このほかに、900m付近から振子沢を横断し的場川に至る一帯(通称ブナ平)、前山(1611m)中腹の1450m付近から1320m付近の的場川源頭部までにも純林的なブナ林が存在する。樹齢100年を超えると思われるブナの姿は圧巻であるが、ブナ平では3本が並立していたブナの内、中央のブナが1997年頃に倒れた。原因は不明だが、樹冠の競合による一種の自己間引き現象かもしれない。また登山道沿いのブナも20年前は健全であったブナの大樹が下部の大枝の折損により主幹部がはがれ空洞化した幹の内部をあらわにした姿に変貌するなどこの20年の間にも、少なからず林相に変化が見られている。ブナの空間を縫って、ヒメアオキ、エゾユズリハ、コミネカエデ、オオカメノキ、サラサドウダン、ハウチワカエデ、ミズキ、タムシバ、コバノトネリコなどの中低木、林床にはオクモミジハグマ、ベニバナイチヤクソウ、ショウジョウバカマ等に加え、ホソバナライシダやシノブカグマ、ハシゴシダなどのシダ類が観察できる。 e ブナ−コメツガ混交林 森林生態系保護地域保全地区の標識の先の急登を越すとヨコワサルオガセをまとったブナと登山道で始めてのコメツガが現れ、暫らくはコメツガとブナの混交林となる。ここから麦平までは、コメツガが優占種である。見方によれば、麦平を含めたこのコメツガ林が高山の森林の核心部といえるかもしれない。コメツガは不安定な土地や環境で林をつくる性質が強い。またブナ帯まで下降して土地的極相としてコメツガ−ブナ林を形成することがある。したがって高山のコメツガ−ブナ林はその上部のクロベ林から連鎖する土地的極相と考えられる。ここでは、サラサドウダンの大木やミズナラの老木なども見られ、低木ではハナヒリノキ、ツルシキミ、ヒメモチ、イワナシ、アカモノなどが植生する。 |
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f コメツガ−キタゴヨウ−クロベ群集 傾斜がゆるくなり、安山岩の巨岩が現れるようになると、ブナに代わってオオシラビソやキタゴヨウが目立つようになる。1450m付近にはクロベのコロニーが認められる。 本来、日本の亜高山帯の針葉樹林は露岩地から土壌が安定するにつれてクロベ−コメツガ−オオシロビソに変遷するとされている。また吾妻連峰のシラビソやオオシラビソ等の針葉樹林の起源は標高1500m付近からとされている。 これらの事実からこの一帯が高山の森林の起源の様相を残す森林とも考えられる。加えて高山のシラベ植生の下限はこの辺りからであり、極めて自然度が高い林相といえる。ここでは針葉樹の他にナナカマド、アカミノイヌツゲ、アズマシャクナゲ、ホツツジ、コメツツジ等の中低木、林床ではツルツゲ、ヒロハユキザサ(図鑑によりヤマトユキザサとされているタイプ)に加えシダ類ではオオバショリマが現れる。 g 麦平 麦平はアヅマホシクサの原産地とされるところである。鬱蒼としたクロベ林を過ぎるとダケカンバやネコシデが目に付くようになり、チシマザサに覆われた登山道は、一気に視界が開け、湿原が目の前に現れる。標高は1531m、高山のオアシス、麦平である。ここからは、形の整った高山の山頂部の姿が一望であるが、頂上のテレビ用の反射板が目障りである。 麦平は2つの湖沼をもつが、旱魃の年には干上がることもある。この湖沼の高山山頂側にはコバイケイソウの大群落があり、その群落中にはヤマドリゼンマイも見られる。湖沼中には吾妻連峰の固有種アヅマホシクサの純群落が形成されている。湿原の周辺のスゲ類の優占種はショウジョウスゲである。その中に、コバギボウシ、ヒメイチゲ、チングルマ、イワカガミ、ワタスゲ、マルバモウセンゴケなどが点在し、夏から秋にかけてはエゾオヤマリンドウの大群落が見られる。周辺はチシマザサに覆われ、アカミノイヌツゲ、オガラバナ、テツカエデ、ダケカンバ等の樹林帯に移行している。 |
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h オオシラビソ−コメツガ林 麦平から山頂に歩を向けると、ほどなくしてテツカエデの中木に遭遇する。林床はヒロハユキザサが群落を形成している。また、ショウジョウバカマ、マイヅルソウ、チゴユリは登山口からこのあたりまでは一定の頻度で植生が確認できる。 傾斜が急になると周辺の林相は一転してオオシラビソとコメツガの高木層に覆われる。ここから頂上まではオオシラビソが優占する針葉樹林帯であるが、植生は大きく3相ぐらいに分けることができる。麦平から標高100mぐらいは岩塊もあらわで鬱蒼としたオオシラビソ・コメツガ林、大きなこぶを形成したダケカンバが象徴的である。その瘤からはナナカマドの芽生えが成長している。林床にはハリブキやカニコウモリ、ゴヨウイチゴ、バイカオウレンが植生する。これらはオオシラビソ林の代表的林床植物である。 中腹からは局所的にネコシデ、ミネカエデ、リョウブなどの広葉樹のまとまった植生が見られる。その株元にはタニギキョウやゴゼンタチバナが群落を形成している。また本来、クリ−コナラ林の植物であるツルニンジンやケヤキ林にも植生するサワハコベなども生育する。この辺りの植生は同じオオシラビソ林でも高山の鳥子平側とは明確に異なる。 上層部は、針葉樹の樹高が低くなり、林床にはサンカヨウ、ツマトリソウ、ミツバオウレン、コミヤマカタバミ等の高山性植物が生育し、亜高山らしい様相が濃くなる。左手、シラビソの若木を最後に登山道は反射板のある頂上に飛び出す。頂上の植生はシラビソとオオシラビソの混交林である。 [参考文献] 守田益宗.1984.東北地方における亜高山帯の植生史について.日生態会誌,34:347−356 野中俊夫.1987.吾妻火山群の南端−高山の植生と地質 野中俊夫.1990.日本におけるモミ属(ABIES Mill)の分布と北限のシラベ林 樋口利雄他.1994.浄土平、酸ガ平、栂平、麦平湿原の植生.フロラ福島No.12 樋口利雄他.1997.高山のフロラ.フロラ福島No.15 |
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高山との係り 河上 鐐治 |
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昭和24年(1949)の夏豪雨のなか野地温泉に宿泊し、翌朝2階から北の方を眺めると、高山の山頂直下から壮大な滝が流れ落ちていた。 スカイラインのバスガイドは、高山は原生林の山で誰も足を踏み入れたことが無いと紹介していた。この程度の山なら登れないはずはないと、会社の仲間を誘い高山に登ることにした。 ’56年10月11日、鳥子平から藪を掻き分け登り始めた。しばらく行くと踏み跡らしきものがあり、獣道かなと思いながら登るとドウダンと思われる樹木の周りを丸く掘り、根を縄でぐるぐる巻きにしたのを見つけた。「根回し」の本来の意味の実態を初めてみた。今たどってきた踏み跡は盗掘の為の泥棒道であった。程なく頂上に達したが樹木に覆われ見通しが全く効かない。 11月3日、先日と同じ跡をたどり頂上から南の尾根に踏み入った。足元は大きな岩が重なり合い、日の差さない樹林の根元はコケが覆い、下手をすると岩の間に落ち込むような状態だった。尾根伝いに下降すると岩と密生した這松帯となり這松の上を泳ぐ状態で、降り立った所は小さな湿地帯で麦平だった。 何年か前の滝はここから流れ落ちていたと思われるが、あれだけの水量が全く川の無い山頂付近にどうして発生したのか不思議だった。帰りは今の這松帯を登るのは時間的に無理なので、滝が落下した南側岩壁を下ることにし、土湯から幕に通じる林道に降り立つことが出来た。 同年の暮れ高校の同級生が、東京から野地温泉経由で吾妻に行くので、野地温泉まで迎えに来てくれとの依頼があり、12月30日、一人で吾妻小舎に入った。高山に登りたいと云う同宿者を小舎の番人の藤本才城さんに紹介され、序なので同行することにした。スキーの登りは歩きより簡単で瞬く間に頂上に立つことが出来た。 この頃高山にスキーツアーコースを造ろうという話が、土湯温泉山根屋の渡辺氏と、吾妻山の会の武藤さんとの間で進められていた。’57年5月3日〜5日に渡辺氏と吾妻山の会会員とで土湯から登りながらコースの選定を行った。翌年4月5〜6日と5月3〜5日とにかけ、鳥子平からと土湯からと両方面から指導標の取り付けを行った。最終仕上げは ’59年3月12〜14に吾妻山の会の吉野さんが顧問をしている福商山岳部のOB会員も参加して吹雪の中でビバークしながら行われた。その間土湯山岳会員によって夏道が、大体スキーコースに沿って開発された。 高山スキーは毎年1,2月に吾妻山の会の行事として、高湯温泉―吾妻小舎―東吾妻―鳥子平―高山―土湯温泉のコースで実施され、’71年からは3月第1土〜日に定着した。夏コースは ’92年3月14〜15日には日本山岳会アルパインスキークラブのスキーツアーが実施され、当会から奥田さんが参加し、吾妻小舎でスキー場開発反対を訴え、これに対して参加者の元朝日新聞の本多勝一氏が朝日ジャーナルに開発反対の記事を載せてくれた。また同じクラブの行事に再度組み込まれ、野地温泉から幕温泉経由―高山―土湯のコースでツアーが行われ、これにも奥田さんが同行し、高橋さんが土湯から登り山頂で皆の到着を2時間も待ってくれた。 ’56年以来高山にかかわり50年を過ぎました。大型開発を阻止したこの会に入ったことに喜びを感じています。(07.4.18.) |
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森の行方 奥田 博 |
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今年の春に「ふくしまの森歩き」(歴史春秋社)を上梓した。その「はじめに」に私はこんな文を寄せた。 |
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鹿狼山‐父の共有林‐ 小幡 仁子 |
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鹿狼山(かろうさん)という福島県の北はずれにある小さな山をご存じだろうか。私はその鹿狼山がある新地町に住んでいる。標高は430mしかないが、頂上に立てば東に太平洋、西に蔵王連峰・吾妻連峰を望むことができる。海が見える眺めの良い山として、ガイドブックなどにも紹介されている。麓の鹿狼鉱泉から頂上まではおよそ40分。休日には小さな子供からお年寄りまでたくさんの人々が訪れている。私自身も昨年は30数回登った。春はカタクリから始まりコナラ・イヌブナ・シデ類の新緑がとても美しい。秋の紅葉、冬でも雪はほとんどなく、落ち葉を踏みしめながらのハイキングを楽しむことができる。私が嫌いな杉林もあるが(私はスギ花粉症なのだ)よく手入れされ、鬱蒼としていないのがいい。故郷の山として町民に愛されている山だ。 ところで、この鹿狼山の麓に、我が家で杉林を所有していることを知ったのはつい最近のことである。父の話では、鹿狼山の北ノ沢という場所に40年程前33人で6丁6反歩の共有林を持ったそうだ。一人2反歩の割り当てで、杉を植えてやがて大きくなったら家を一軒くらい建てられるようにと何千本、いや何万本という杉苗を植えたという。以下は父の話である。 昔、鹿狼山は里山だった。(私は父の口から「里山」という言葉が出てきたことに驚いた。)薪炭林として、毎年水源保安林を解除して払い下げてもらい、みんなで木を切り出したもんだ。何せ、その当時は炊事も風呂も、冬の暖を採るにしても薪や炭だったから、1年分の薪を山から取って来るのは大変なことだった。そのころは家で牛を飼っていたから、荷を引かせるのに連れて行ったが、牛もその仕事が嫌で泣いていたなあ。(ここで母が話しに入り「ほんとにあれは重がったよなあ」と。)誰もが薪は入り用だったから、山持ちは山を持っているだけで金になり、羨ましがられたもんだった。 そのうち世の中が変わって、薪だの炭を使わなくなって、この地区の33人で6丁6反歩の共有林を持つことになった。山を切り開いてみんなで杉苗を植えた。何千本いや何万本と植えたなあ。一人2反歩の割り当てだったから、家の一軒くらいは建てられっぺって、一生懸命植えたなあ。 ところが、ある年の春に大雪が降って、共有林に行って見たところが一面の雪の原になっていた。植えた杉はボキボキ折れていた。そんな折れた杉なんて役にも立たないし、丁度そのころに輸入木材が安く入るようになってきて、苦労して育てる価値もなくなって、俺たちは山の手入れもしなくなった。 それでもしばらくはみんなで年に1回は山を見に行き、2年に1回は山総会をしてきた。今は、年に2000円ずつ、全員で6万6千円の税金だけ払っている。今までは山を切り開いた時に大きな樅の木何本もあって、それを売った金で税金を賄ってきた。そいつも底を尽いてしまった。 杉も一度は折れたが、折れても結構育つもんで、今ではずいぶん太くなっているようだ。俺は歩けなくなって見には行けないが、柱にはならなくとも使いようによっては十分に役に立つと思う。最近は国内産の杉も外材に負けないくらい利用されているような話も聞く。 山総会の時に、あの杉を切り出すかという話にもなるが、俺は賛成しない。杉を切り出したら、その後にまた必ず木を植えなければならない。そのまんまにしておいたら、必ず山崩れを起こすからなあ。そんなことになったら大変なことになる。俺たちは年をとって誰も昔のようには働けない。あそこに、また植林する力はない。こんな話は新地町の中にいくらでもあって、前の町長は町で少しずつ買い上げてくれたが、前町長が亡くなってからはその話も頓挫してしまった。まあこのまま当分は放っておくしかないが、あの共有林がどうにかなる前に、俺は死んでっぺなあ。 この話を聞いてから、私は鬱蒼とした杉林を見るたびに、ここも父の共有林と同じなのだろうと思う。放置され手入れもされずスギ花粉を出し続けるこの森はこれからどうなるのだろうか? 中学校の地理の教科書には「日本の林業」という所にこう書かれている。「エネルギー革命によって、木炭の原料であった落葉広葉樹の国有林や里山林になどの伐採跡地にすぎやひのきの植林がさかんに進められたため自然林は減り、人工林の面積が増大した。現在では、森林面積の約60%が私有林で、その約半分が人工林になっている。1970年代になると、日本の木材よりも輸入木材の価格が安くなり、輸入が急増した。その結果、日本は世界の木材貿易量の2割以上をしめる世界一の木材輸入国になっている」と。 人工林はそんなに多かったのか!自分の国の森を放置しておいて、人の国の森を切っているのか?!日本の林業行政はどうなっているのだろうと大いに疑問を覚えた。 私は、父の共有林のことを通して、一度壊した自然を元通りにすることは大変なことなのだと改めて実感した。エネルギーが木炭から石油に変わって、人の生活は格段に便利になったけれど、失ったものも多いのだと思う。やがて自然を使い尽くして人は滅びてしまうのかもしれない。 振り返って、自分に何ができるのだろうかと考えてみた。父の共有林を受け継いだらどうすればよいのか。杉を切り出した後は、できれば鹿狼山の自然林のようにコナラやシデ類に覆われた、小鳥や動物が住めるような優しい森に復元したいけれど。そんなことができるのかな。高山の会では鳩峰峠の元牧場に、沢山の落葉広葉樹を植えた。あんな風にできればよいのだが。 次世代に、できるだけ住みやすい環境と美しい自然を残したい。そのために自分ができることは、どんな小さなことでも良いから続けていきたいと思うこの頃である。 |
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アオダモの冬芽 鎌田 和子 |
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「高山の会」の2月の観察会は主に冬芽の観察になる。この時期、決まって思い出すのが、アオダモの冬芽の色合いについてだ。 アオダモの冬芽は少し紫がかった鼠色をしていると見ている。毎年、守さんと日本古来の色ではなに色というのかしらね、って話すのだが、それ以上は調べが進まなかった。ここ2、3年はアオダモの冬芽に出合うたびに守さんと顔を見合わせている始末。 今年はぜひ「○○○よ!」と言ってみたいものと思い、色合わせのために一冊の本を携えての参加。「和の色手帖」という本を図書館で見つけた。この本に着目したのはカタクリの会の瀬川陽子さんの言葉がヒントになってのこと。「カタクリの会」は「高山の原生林を守る会」が観察会として活動するきっかけとなった会で、いわば親のような存在だと聞いている。だからというわけではないが、その「カタクリの会」の観察会に参加するのが夢だった。その夢を昨年かなえることができ、それ以来、瀬川陽子さんには自然観察に関わる気づきや驚きを聞いていただいている。 話はアオダモの冬芽に戻る。その冬芽の色にピッタリと思えるのが「鳩羽鼠」。今回の仁田沼の観察コースにアオダモがあるのかどうか、少し不安だったので、先に信夫山のアオダモと色合わせは済ましてきている。仁田沼のアオダモはどうか。守さんが果たして「鳩羽鼠」に納得するか、いささか不安はあった。観察会の当日は雪が降った。冬芽の観察ができるか、アオダモがあったとしても雪に濡れて鳩羽鼠の色が見られるか、心配だった。 歩き出してまもなく、早くもアオダモに出合った。案の定、冬芽のさきっぽが濡れて黒ずんでいる。それでも全体はいつものアオダモの冬芽の色合いをしていた。 数年前の十万劫山の観察会以来、気にかかっていたアオダモの冬芽の色を日本古来の色名で守さんに答えることができた。「鳩羽鼠」よりもっと近い色があるのかもしれない。でも今は鳩羽鼠としておきたい。 守さんは「波止場ねずみ」のような感じだなとつぶやいていた。「はとばねずみ」という音から、そう感じるのはみんな同じだと思う。「城ヶ島の磯」に降る雨は利休鼠なんだって。どんなネズミかなと思ったことがあったもの。 それはさておき、アオダモの冬芽の一枝をコップに差して、その色合いを眺め楽しんでいる。紫色をおびた鼠色がなんともいえない味わいを醸し出している。昔の人は自然界の色を生活の中に取り込んだのだろうか。「鳩羽鼠」は決してアオダモの冬芽の色を取り込んだのではないと思うのだが、じっと見ているとそんな気がしてくる。なんとはなしに大発見をしたような気分になってくるから不思議だ。ともあれ、数年来の気がかりがとけて本当にうれしい。 私にとっての「高山の会」は、自然の不思議に気づき、色や形のおもしろさを語り合うことのできる仲間がいて楽しいところだ。そして、いつの観察会にも新たな発見があり、ときには宿題をかかえて帰ることもある。最近はその宿題を解決するのが楽しみになってきている(2007.2.10)。 |
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高山の原生林を守る会に寄せて! 原田 フミ子 |
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「高山の原生林を守る会」今年で発足20周年目を迎えての活動おめでとうございます。同時に発足した自然観察会の運営を続けてくださっている高橋淳一さん、佐藤守さん、奥田博さん、そして会員の方々の、花、樹、鳥、動物の観察の鋭い目、最初の時など植物のどこの部分の説明か、全くわからないのである。みなさん私の様な森林浴を楽しむ程度の知識しかない者とは違い、私はこの方々を歩く図鑑と命名し、そういう方々と同行させていただき、最近すごく観察会が楽しくなってきたのです。私は、観察会で一番覚えたいのは、樹木です。少しずつでも気になる樹の名前を覚えたいと思っています。 私は、高山のスキー場建設の反対運動の事は20年前「小鳥の森」で自然と耳に入っていました。その時はまだ私は登山などはできなまいと決め込んでいました。でもその頃から自然保護運動と言う活動も少しは私の頭の中にインプットされていました。 登山を始めたのはそれから3年位たってからです。早いもので登り始めて17年です。この間、私は結婚、出産と自分にとって大きな転機の時期で、子育てしながらの登山は近辺の山々を季節を変えて何度も登る山行が続いていました。登山クラブなどにも入って山行を続けて来ましたが、足の負傷、病気をした事で、大好きな登山をやめるしかないと思った時に、福島の私の足トレのハイキングコース十万劫で高山の原生林を守る会の会員の吉田勝子さんと知り合い、紹介していただいたのです。 そんなわけで20年の月日を経て自然保護の活動に参加できたのは、めぐり逢わせ見たいな事を感じずにはいられません。一期一会が偶然重なり、三度顔を合わせたら、腐れ縁なんて私は勝手に決めています。山や自然を通して、いろいろな人達とも縁があり、たくさんの事を教えていただき、ありがたい言葉に、泣いたり、怒ったり、悩んだり、笑ったり、恥ずかしい思いもずいぶんして来ましたが、全て自分の心の成長の栄養源です。自然相手は厳しい事もたくさんあるけど自然治癒力を信じて、これからも多くの事を学べたら良いと思っています。 我武者羅に登った時期もあって良かったと思いますし、今現在ゆっくり動植物を観察し、自然と対話する事の面白さを知って良かったと思います。 これからも自然観察会を通して、自然を守ることの難しさと、どんな風に守っていくかを考え行動を起し、みなさんに理解してもらえるよう頑張りましょう。小さな草の根運動が20年間、高山の自然を守れたのですから、体力の続く限り続けましょう。 体調をくずしたおかげでみなさんとめぐり逢えたのですから、人は山あり、谷あり、いい事も悪いことも長くは続かない。あきらめなければ道は開けると思うこの頃です。 |
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「高山の原生林を守る会」との出会い 伊藤 順子 |
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高山にスキー場建設計画が出て来て大勢の方々が反対運動に東奔西走していたという事に私が気付いたのは、そのずっと後、運動がピークを過ぎた頃でした。偶々目にした新聞に「その運動の経過や調査した事などを冊子に纏めたこと」「希望者に実費で分けてくれるとのこと」と「高橋さんの連絡先」が載っていました。そのスキー場建設問題は、多分に私が仕事と家族の介護とで目の前の事だけで精一杯、社会の動きなんて関係ないと無我夢中で日々を送っていた丁度その時分だったと今にして思います。 |
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富士には月見草が似合う・・・高山には? 伊藤 順子 |
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「富士には月見草が良く似合う」これは、太宰治の「富岳百景」の中のあまりにも有名な一節だ。けれど、「必ず!月見草」だろうか?或いは「絶対!富士山には」だろうか? |
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雑草が花として見える今 吉田 勝子 |
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シナノキンバイの目の覚めるような黄色、ハクサンフウロの鮮やかな色合い、ムカゴトラノオ・コバイケイソウの群落などの花に、山を歩いていてどれだけ励まされたことでしょう。どれだけ感動をいただいたことでしょう。あるとき、山の花の美しさを話す私に夫は「山の花は美しいと思う。だけど、山の花と同じくらい我が家の雑草の花もきれいだよ。」と言ったことがあった。そのとき私は、山に登らない人は山の花の美しさが分からないと反論したような気がする。2年前から高山の会にお世話になるようになった。会の観察会は、里山や遊歩道の草花や木々の観察が多くいつの間にか身近な草花に興味を持つようになっていた。今までは目に留まらなかった目立たない草花、ただ雑草と見ていた草花が花に見えるようになってきたから不思議である。庭の雑草は、今では雑草ではなく興味の対象になってきている。芽が出ても採らないでどんな草花になるか待とう、一箇所に集めて増やそう、鉢植えに似合う花かなと楽しんでいる自分に気づき驚いている。オオイヌノフグリ・カラスビシャク・キランソウ・トキワハゼ・ムラサキカタバミ・ラショウモンカズラ・オランダミミナグサ・ツメクサ・スズメノカタビラ----小さくて色も派手ではないけれど、それぞれ見れば見るほどきれいな花を咲かせている。キュウリグサに似たノハラムラサキの花の名前がなかなか分からなかった。夫婦で図鑑を見ながら「これかな、いや、葉が違うね。」と探したが見つけることができなかった。鎌田さんに教えていただき図鑑で確認して納得したときは言葉に言い表せないほど嬉しかった。長い間別々の趣味でそれぞれの道を楽しんできた夫婦であったが今は庭の草花で会話が弾むようになってきた。名前を忘れても分かるように写真に撮り、花アルバムを作るほど毎日の生活の中で楽しめるようになってきた。雑草の名前が分かったとき、それは雑草ではなく心を潤す花になる。心を育てるということ、美しいとは何かが少し分かってきたような気がするこの頃である。 |
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前回の「高山60号」に、浜通りの照葉樹林の特性について紹介し、保護の必要性について述べたが、今回、あらためて、その具体策について夢みたいな提案をさせていただきたいと思う。 今から約6,000年前の縄文時代前期頃に形成された暖地性常緑広葉樹林(照葉樹林)は、東北地方太平洋岸と日本海岸沿いを北上し、陸奥湾に達している。夏泊半島にあるシロダモ・ヤブツバキの群落がその北端であろう。植生的には、ヤブツバキを標徴種とするヤブツバキクラス域と言われている。狭い幅ながらも東北地方の海岸沿いを巡る様は、奥羽山脈における緑の回廊の例をとれば、さながら照葉樹の回廊と言いあらわす事ができるのではないかと思う。太平洋側は勿来の関で茨城の海岸と接し、日本海側は念珠ヶ関で新潟の海岸と接する。勿来の関と念珠ヶ関をそれぞれの出発点とする照葉樹の回廊(ヤブツバキクラス域)は、現在は、自然植生が断続的にしか残されておらず、各県・市町村でそれぞれに独自に保護対策を講じているのが現状と言えよう。 東北地方のヤブツバキクラス域には、シキミ−モミ群集・シラカシ群集・ヤブコウジ−スダジイ群集・イノデ−タブノキ群集・マサキ−トベラ群集・ヤブツバキ群落などの自然植生が知られている(宮脇昭編著1987年『日本植生誌−東北−』至文堂)。それぞれの自然植生における林相は、各地の気候風土によりさまざまな姿を見せている。現在、各自治体で保護している照葉樹自然植生ばかりでなく、保護施策の対象になっていない照葉樹自然植生がまだ数多く残されていることも事実である。手前味噌で申し訳ないが、昨年の11月から今年の4月にかけて双葉郡南半部の照葉樹植生について、個人的に調査を行った。都合40回ほど通って、広野町・楢葉町・富岡町の海岸から阿武隈山麓にかけて踏査したが、福島県または町当局が保護の施策を行っていないまとまった自然植生が6箇所ほど確認された。内訳は、ヤブコウジ−スダジイ群集1箇所、イノデ−タブノキ群集3箇所、マサキ−トベラ群集2箇所で、他に、胸高直径1mを超えるスダジイの巨木やアラカシの巨木、ヤブニッケイの群落などを確認することができた。さらにアカガシやタブノキ・ウラジロガシの高木による見事な防風林・屋敷林・社寺林(鎮守の森)なども確認できた。木戸川渓谷などにはウラジロガシの林分が断続的に見られる。これらの植生のなかには海岸の保安林というような形で保全されているエリアも認められるが、天然記念物・自然保護・生態系保護の視点からの保護施策はなされていない。 照葉樹の回廊というものをあえて名称化するのは、海岸沿いの自治体が連携して東北のヤブツバキクラス域自然植生を保護することができないだろうかと考えたからに他ならない。各自治体ばらばらではなく、連絡を取り合いながら保護施策を講ずるシンボルとして東北照葉樹の回廊「みちのく海の常葉路」事業を提唱したい。林野庁や農林水産省・環境省・文化庁が連帯して事業をバックアップしていただければ、必ずしも不可能とは言えないだろう。 東北照葉樹の回廊には、自然林だけではなく、屋敷林(「イグネ」とも言う)や防潮林・防風林・社寺林を含めたい。歴史的に照葉樹を生活に取り入れてきた地域的な文化・風土というものがある。文化庁の提唱する「歴史的景観の保護」事業にも一致する例があるのではないか。また、海岸沿いの植生には「魚つき林」と呼ばれるような海水の保全と漁業資源保護に役立つ林もある。また沿岸漁業の漁師たちは、森や立ち木、山を見て漁場を特定する。自然保護団体や植物学や動物学などの自然科学の分野の他、歴史学・民俗学関係者などが連携して事業にあたれば、有意義な成果が期待できよう。 まず、各団体や自治体が連携して保護施策を検討する組織を立ち上げ、各市町村に残されたヤブツバキクラス域自然植生を調査することから始まり、それを集めて東北照葉樹の回廊の実態を公表し、保護・利活用方法を検討し、実現に向けた作業を行う。実現できるかどうかはわからないプロジェクトであるが、夢を持たなければ実現は不可能であろう。東北地方における照葉樹の自然植生はきわめて脆弱で断続的かつ幅狭い。しかも、奥山の天然ブナ林や亜高山帯・高山帯の森林と異なり、多くが民有地でもあり、市街地や工場・農地に隣接していることから開発により破壊される危険に常時晒されている。今、何らかの保護施策を取らなければ、将来に残すことは困難と言えよう。 本会20周年記念会報上で、夢みたいな話を書いてしまった。最後に信夫山の話をさせていただく。信夫山にはヤブツバキクラス域のシラカシの林分がわずかに残っている。林床にはヤブコウジが生え、スダジイやアオキ・ヤツデ・イヌツゲ・テイカカズラ・キヅタなども見られる。これは、約6,000年前の縄文時代前期に、阿武隈川を遡り、白河から棚倉を経て久慈川流域に至る照葉樹の回廊が形成された名残と考えられる。実際、白河市や棚倉町でもシラカシが散見される。このような植生史上でも重要な位置づけと見なされる信夫山の植生は、まだまだ未調査部分が残されている。その信夫山について、眺望を得るために福島市が樹木を一部伐採するという景観整備計画が浮上している事を耳にした。計画は具体化の直前段階まで進んでいるようである。行政当局の自然に対する価値観が疑われる計画である。この計画の再考を促して擱筆したい。 |
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道路工事で寸断されたタブノキ自然林。写真右端に道路開削による法面が見られる。浜風による風衝樹形が特徴的。いわき市以北ではタブノキ自然林は少なくなり保護したい植生である。 |
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■会創立20周年を迎えたこの夏に、会員から小さな「大待宵草を守る会」を設立したとのメールが届いた。大待宵草は竹久夢二で有名な外来植物であるが、最近は別の外来種に圧倒されて福島市近郊でもすっかり影を潜めてしまっている。会員が日課としている自然観察を兼ねた散歩コースで大待宵草を見つけた。そこは、毎年夏になると刈り払いが行われるため、せめて実を結び子孫を確保するための種を地に播くまで、見守っていたいとの願いから夫が代表、妻が事務局長で会設立に至ったという。■20周年の節目の年にふさわしい快挙に拍手喝采したい(MS記)。 |
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