高山と考古学シリーズ@      氷河時代の思い出         山内 幹夫

 あなたは、なぜ山に登るのでしょうか。「○○名山のピークを目指したい」 それも目的でしょうし、「山の自然が好き。」「都会では味わえない山の雰囲気と、美しい高山植物に触れたい。」さまざまな思いで皆さんは山に足を向けていると思います。しかし、それだけでしょうか。私は、吾妻山系でも、高山や、東吾妻山南麓の景場平、そして姥が原の風景を見ると、なにか、とても懐かしい所に来たという気持ちになります。針葉樹林の中に入り、独特の黒木の香りに浸り、広々とした草原のチシマザサやクロマメノキの群落、ワタスゲが茂る池塘を見ると、強いノスタルジアを感じます。 山に登る人々が全て同じ感情を抱いているとは申しませんが、何か無意識のうちに、我々共通の故郷に足をむけているのではないでしょうか。
 それはいったい何なのでしょうか。私は「人類がかつて生きてきた氷河時代の思いで」ではないかと思うのです。

 人類が地球上に現れ、猿人から進化を遂げてくるまで、幾多の氷河時代を経験して来ました。最近では、今から2万5千年位前に最も寒い時代があったことがわかっています。その時代は現代よりも年平均気温が7〜8度も低く、海水面は10メートル以上も下がっています。そのために、阿武隈山地東縁では木戸川や請戸川、泉田川などが深い渓谷を刻んで太平洋に直接臨んでいたなど、地形的にも大きな変化が見られました。

 ともかく、信じられないくらい寒いその時代にも、人々が生活していた遺跡が考古学的に発見されています。それも、福島県内各地から数十遺跡も確認されています。まだ、人々が土器を作る技術を持たず、石器のみをたよりに、野牛や鹿などの大型獣を追って生活していたこの時代のことを、歴史的には旧石器時代と言います。

 私も長野県霧ヶ峰や福島市、いわき市、双葉郡楢葉町、郡山市などで旧石器時代の遺跡発掘調査を実施したり参加したりしましたし、浜通りではその分布調査も行ってきました。第四紀更新世に堆積したローム層という赤土の中から石器が出土するのですが、今でも石器が出土した時の喜びははっきりと覚えています。素晴らしく美しい頁岩製の槍先形尖頭器やナイフ形石器を見るたびに興奮します。

 ロシアの大草原で、マンモス象を追いかけていた人々のことを連想し、大好きなロシア民謡「ポールシュカポーレ」の音楽を口ずさみながら、目の前に広がる発掘調査現場に佇む時がとても幸せです。事実、旧石器時代にはシベリアのアムール川流域から日本列島にかけて、同じ特徴の石器が発見されているのです。
 それはともかくとして、遺跡からは、石器ばかりでなく、当時の環境を復元するのに重要な植物遺体や花粉、珪酸体(プラントオパールと言い、笹の葉で手を切る原因となるガラス質の物質)なども確認されます。実はそれによって当時の風景を想像することが可能となるのです。日本では「パリノ・サーヴェイ」や「古環境研究所」など様々な機関でこのことに関する分析・研究を行っていますが、福島県内で発掘調査された遺跡のデータも分析していますし、最近では東北地方のデータも揃ってきました。

詳細を述べると長くなるので、結論を言いますと、当時の福島盆地や郡山盆地、太平洋岸などは、森にはエゾマツ・トウヒ・チョウセンゴヨウ・コメツガ・グイマツ等の針葉樹が卓越し、ヤマハンノキやカバノキ属も認められる。シラベも確認されている。草原にはミヤコザサが卓越している。風景としては、パークランドと呼ばれるような、樹木・低木・草原の配列が見られる。以上のようなことなのです。
 簡単に言うと、浄土平や兎平、姥が原のような景色に高山の針葉樹林を織り交ぜた風景を思い浮かべてください。日本海に暖流が流れ込んでいませんので、積雪はそれほどでもありませんが、とても寒く乾いた環境です。時には火山が爆発しています。九州鹿児島の姶良火山の火山灰が福島県でも確認されています。
 そのような所に私たちの先祖は生活していたのです。当時の人々の血が脈々と現代人につながっているとすれば、どこかに、旧石器時代(氷河時代)の思い出が残っていないでしょうか。これは私の夢ですが、殺伐とした現代だからこそ、山に行き、私たち日本人の原風景を訪ねて束の間の安らぎが得られるのではないでしょうか。今の植生は当然当時とは異なりますが、雰囲気として連想できるものがあるのではないでしょうか。
 次回は、具体的な発掘調査成果と、当時の生活についてご紹介したいと思います。

 姥が原の太古幻景    イラスト M.Yamauti

高山と考古学シリーズA      古代人のこころ         山内 幹夫

前回の続きとして旧石器時代の発掘調査や、当時の人々が使っていた石器などについてご紹介する予定でしたが、その前に、「古代人の心」のことについてどうしてもお話しておきたいので、そちらを優先いたします。

 「旧石器時代や縄文時代の人々がどのようなことを考えていたのか、山や自然に対してどのような想いを抱いていたのかを知る。」果たしてそのようなことができるのでしょうか。今から何万・何千年前の人々の「こころ」に近づくことがある程度可能だと言ったら、皆さんは疑問に思われるかもしれません。しかし実は、考古学的な調査成果に肉付けして、当時の人々の考え方や生き方を推定する方法に、民族学や民俗学の援助を借りることがあります。今回はその民族学的な研究をもとにして考えてみたいと思います。

 北海道にアイヌの人々が居住していることはご存じでしょう。そのルーツについては諸説がありますが、その言語は「古アジア語族」に属し、形質人類学的には南方モンゴロイド系で、沖縄の人々と同じように縄文時代人の形質を色濃く受け継いでいるという説が有力です。アイヌと沖縄の人々は大変よく似ていて、最近は文化交流行事もなされています。

 東北日本には、アイヌ語地名が数多く残っているという話をお聞きになったでしょうか。福島市の立子山も「タッコプ」という乳房のような形の山を表現したアイヌ語との説もあります。千貫森がそうなのです。さらに、私は偶然にも、飯舘村や須賀川市で、縄文土器がまとめて捨てられた場所を発掘調査する機会がありましたが、そのあまりのまとまり方から、「それは縄文土器を捨てたのではなく、感謝して丁重にお送りした場所」ではないかと思って調べたところ、アイヌ文化の「モノ送り(イワクテといい、世話になった道具を感謝して神の世に送ること)」と大変似ていることがわかりました。

 縄文文化にもアイヌ文化に類似することがいくつかあり、また、アイヌ語地名があちこちに残り、秋田の阿仁マタギではアイヌ語をルーツとする言葉が使われていることなどから、アイヌの人々の文化を調べれば、縄文時代の人々の「心」に少しでも近づけるのではと考えるようになり、今も少しずつ勉強しています。

 アイヌの人々の生活は狩猟・漁労・植物採取をベースにヒエやアワなどの簡単な農耕を加えて、営まれていました。もちろんこれは明治時代以前のことですが、和人の侵略がなければ、樺太南半部から北海道・千島列島・カムチャツカ半島の一部にかけて、大自然と仲良くつきあって幸せに暮らしてこられたのです。彼らには自然と共に生きるすばらしい骨太の思想と文化があり、人と人とのつながりを大切にする豊かな心がありました。ユーカラやウェペケレといった物語はそこから生まれたのです。なによりも山や川、海、森、植物、動物に対する理解はすばらしいもので、それらに加えて人が作った道具や建物など、あらゆるものに「カムイ」という魂の宿りを認めて、感謝の生活を送ってきたのです。当然言葉にも魂が宿っています。だから会話をとても大切にしてきました。「自然を敬うことにより、アイヌも自然に大切にされる」ことが基本です。一例として「家を建てるのに使うブドウヅルを山で採る時も、親熊や子熊を嘆かせないように、イタヤやナラの木に絡む甘くないブドウのツルを選んで切る」という思いやりがあります。シベリアやアリューシャン、アラスカ、グリーンランドでは、ヤクートやチュクチ、イヌイットの人々が昔ながらの生活で不自由なく暮らしています。アイヌの人々も本来ならば、あの大自然で不自由なく暮らせたのです。人間の豊かさの条件は物質文化ではなく人と人、人と自然が心豊かに大切にし合って生きることでしょう。実は、縄文時代の人々の「こころ」は、そのようなものでなかったかと考えているのです。皆さんはいかがでしょうか。

 カタクリの郷愁    イラスト M.Yamauti



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