鹿狼山から  
42 〜津波跡地の植物    小幡 仁子

去る11月26日(日)に、福島大学教授の黒沢高秀先生の講演会が南相馬市博物館で行われました。演題が「東日本大震災の津波跡地の植物の変化」という興味深いものでありました。私が住む新地町は、まさにその津波跡地なので、講演を聴いてきました。

 まず、海岸線に沿って「砂丘植生」「塩沼性植生(塩性湿地)」「海崖植生」「海岸林植生」というものがあり、という説明がありました。砂丘植生といえばハマヒルガオが・・・という話が進むと、私の脳裏に懐かしい子供の頃の風景が蘇ってきました。そういえば砂丘・塩性湿地・海崖・海岸林など、どれも身近な生活範囲の中にありました。

 私が小学生の頃、昭和30年代、40年代初めの頃まで、新地町の浜辺は、それは、それは波打ち際がずっと遠くにある砂浜でした。そしてピンク色の美しいハマヒルガオが沢山咲いていました。夏はよく海に遊びに行きました。靴を脱いで波にさらわれないように遠くに置くと、海の水に浸かるまで距離がありすぎて、足の裏が熱くて大変だったのを覚えています。夜は海鳴りの音がしました。ドドーン、ドドーンと波が砂浜を打ち付けるのです。寝ながら子守歌のように、その音を聞いたのも覚えています。そして、夏休みには朝早く「早起き会」というのがあって、地区で小さな運動会を砂浜で開いてくれました。その頃は子供も沢山いました。宝拾いのような事をして、何か景品をもらった気がします。砂浜で朝日が昇ると、海面に金色に輝く一本の道ができました。子供心にもきれいだな、この道を歩けたらいいなと思ったものです。懐かしく美しい思い出です。

 そんな砂浜も相馬港ができ、砂の流れが変わったということで、私が中学生の頃には高い防波堤とテトラポットが並ぶ海となりました。そこに砂浜があったなんて信じられないような人工的な海岸になったのです。そしてハマヒルガオを見ることは無くなりました。

 また、講演会で「塩沼地植生(塩性湿地)」の歴史も聞きました。幼い頃は田んぼの向こうに葭の原が広がっていました。お盆の頃に両親が葭刈りをしていました。葭は盆ござとなり、農家の副収入になったといいます。昔はこの塩性湿地で塩を作っていたが、塩が専売制となり、作ることができなくなったので、開拓が進み田んぼになったそうです。新地町に火力発電所ができたとき、発掘調査があり、私の家は大きな塩溜の跡地に建っていたことが分かりました。 私の祖父は開拓農民としてこの地に入植してきました。その頃は「自然海岸」が果てしなく続いているような土地だったのだと思います。私が幼かった昭和30年代頃はまだ大部残っていた状態なのでしょう。

 講演会では、2011年3月11日の東日本大震災による津波や地盤沈下は地形や生態系に大きな変化をもたらした事が説明されました。希少種の減少や消失を引き起こしたということです。しかし、一方で海岸林や水田だった場所に、裸地や湿地、干潟などの様々な環境が出現し、その後背湿地や塩性湿地の一部には、震災以前は特定の地域でしか生育が確認されなかった希少種が繁茂したということです。その中にはミズアオイも入っていました。また、ツツトイモ、チャボイ、ウミミドリなど、震災前には見られなかった希少種も出現したそうです。震災の生態系への影響は「被害」として語られる事が多いが、人により失われた海岸の湿地や干潟が再生した一面もあるということで、わたしもなるほどと思いました。

 ところで、一昨年、観察会でウミミドリを見ましたが、あの場所は整地されてしまい、ウミミドリは無くなってしまいました。今年9月に、同じ場所の湿地にミズアオイがありましたが、その場所も重機にならされて、跡形も無くなっていました。
 津波跡地では防潮堤復旧事業や防災緑地整備事業が進んでいます。震災後に出現した干潟、塩性湿地などはこれらの事業によりすでに消失している所もあるそうです。そこで、復旧・復興事業が与える海岸植生や希少種への影響を多少とも軽減するために、防潮堤のセットバックやビオトープの造成と、そこへの希少種の移植、湿地の復元、保護区の設定などが行われるということでした。

 新地町では海岸沿いに防災緑地公園ができる計画があるのは知っています。そこに2haの塩性湿地が残されるようです。多少なりとも絶滅危惧種や希少種が残るように行政が考えてくれるのは喜ばしいことです。でもそこで、ミズアオイやウミミドリやその他生き残った植物を再び見ることができるのでしょうか。  (2017/12/20 記)

  

ミズアオイやウミミドリがあった場所は埋め立てられて跡形もない