鹿狼山から  
36 〜あれから5年    小幡 仁子

 東日本大震災から5年が過ぎました。5年という区切りの年のせいか、テレビでも新聞でも東北沿岸部各地の様子が報道されています。高台移転が上手く進まず、人口流出が続く町があったり、仮設を出て新しい住居に入ったものの、見知らぬ人々の中で孤立し、生き甲斐を失ったりなど、苦しみ悲しみは尽きることはないようです。私が住む新地町でも100名を越える方々がなくなりました。住居を流出された方も数知れずおられます。3月11日という日は、これからも「あれから〜年」という日になるでしょう。
私の家のすぐ近くに「すずめ塚応急仮設住宅」があります。新地町は高台移転がスムーズに進み、仮設住宅が2カ所に集約されました。ここはその2カ所の内の一つです。ペットを飼ってもよいということで、以前は犬を散歩に連れ出して、このあたりを歩いている方も多く見受けられましたが、今はそういう姿も少なくなりました。先日行ってみましたが、駐車場には車が数台止まってはいましたが、空き家が多くなっているようでした。災害公営住宅もでき、新築の家が建ち並んでいますから、皆さん、引っ越されたのでしょう。先々で、どんな生活をされているのかは分かりませんが、安心・安全で穏やかな生活であることを願ってやみません。
私の伯母はあの津波でたった一人しかいない孫息子を失ってしまいました。毎日仏壇に向かって「今日も気を付けて仕事行って来なよ」と声を掛けていたそうですが、昨年の夏、心臓発作で倒れ、そのまま逝ってしまいました。孫をおんぶしてあやしながら歩いていた姿が思い出されます。あの世で孫とニコニコしながら話でもしていることでしょう。伯父と一緒に暮らしているいとこが、伯父がしょんぼりして誰とも話をせずにいる、心配だから仕事を辞めたと言っていました。私は悲しくて何も言うことができませんでした。あの津波がなければ、いとこの息子も元気に働いていただろうし、そんな孫を側で見ながら、伯母は田畑の仕事を続けていた気がします。
3月5日に久しぶりに鹿狼山に登りました。今年は雪も少なく、春が早いせいか、もうカタクリの葉が出ていました。来週には咲き出すかもと思いました。キブシの芽も膨らんでいるし、スイセンも咲きそうでした。春を感じながら降りる道々、ふと東の方を見て驚きました。山がすごい勢いで削り取られて減っていたのです。そこは、以前から採石場でした。「二鞍山」という名前の山だったのです。鹿狼山の東、大沢峠のすぐ脇にあります。実家の父母にこの山のことを聞きました。昔、駒ヶ嶺村と新地村、福田村が合併して新地町になるときに、駒ヶ嶺村では各地区で共有林として山を分けたのだと言っていました。「二鞍山」はどこかの地区の共有林であることが分かりました。砂利を取っているので、共有林の持ち主にはその代金が今でも支払われているのではないかとも聞きました。今、沿岸部はものすごい勢いで堤防工事や道路工事が進んでいます。大型トラックが砂利や土を運び入れ、クレーンやブルドーザやショベルカーが唸りをあげています。私の隣組の貸家に引っ越してきた方は「三重県から堤防工事のためにやってきました。3年位ここにいるようになります。怪しい者ではありませんから」と、挨拶に見えられました。
津波により沿岸部は堤防も壊れ、道路も流されたのですから、そこに新たに堤防や道路や防災緑地公園などを作るのは当然のことと言わなければなりません。しかし、「二鞍山」は間もなく無くなるでしょう。山が無くなれば名前も無くなります。里山が昔から人の手が入り、人の役に立つ存在であったというなら、無くなるのも致し方ないのでしょうか。空しさを感じるのは私だけかもしれません。エサがなくなり、空腹に堪えかねるとタコは自分の脚を食べるといいます。何かそんなタコになった気分になります。         
人は豊かで快適な生活をするために自然に働きかけ、変えてきました。私も実にその一人であることに間違いありません。しかし、そのことにいつも疑問を持ち、自然に対して畏怖の念を持つ人でありたいとは思います(2016/03/13記)。         

   
仮設住宅は空き家が多い  移転後、新築住宅が並ぶ  鹿狼山から見た採石場(二鞍山)  実際の採石場(二鞍山)
   
   沿岸部の工事(新地町)