奥羽山脈花コラム

    

T 花の憂鬱                                          戸村 憂

植物採集の可否如何

 植物学者武田久吉博士は、かつて尾瀬や戸隠など全国各地に採集旅行を行った。尾瀬で植物採集していたなど、まことに隔世の感がある。

 さて、今、尾瀬で好きな花を摘んでも良いということになったらどうなるだろうか。ニッコウキスゲなんかは切り花にもってこいだ。結果、歩道沿いの花は減り、種によっては絶滅の心配も出てくると思われる。尾瀬ではないが、現にアツモリソウなど悪質な野草愛好家の乱獲にあって絶滅の危機にさらされている例もある。

 採集がもたらす生態系への影響については、基本的に需要と供給のバランス、生態系の均衡を維持できるかという視点で考える必要がある。ほとんど人が入らないような山で一人タケノコ取りをしたとしても、植生にほとんど影響はないだろう。採集しても自然の回復力がそれをカバーできれば影響はないわけで、採集によって数が減っていくようでは問題があるのである。

 また、自然公園や登山道、遊歩道周辺は、鑑賞や観察を楽しみに訪れる人々が大勢いるわけで、採集は他の訪問者の楽しみを奪ってしまう。こうした点からも不特定多数の人が訪れる地域での採集は慎むべきであろう。まして、自然公園の特別地域など、法的規制がある場合は、採集は立派な「どろぼう」である。

 子供達への自然教育など、採集は自然を研究したり理解する上で重要な手段ではあるが、やはり場所と意味をよくわきまえる必要があると思われる。

 

ウツボグサとウラギンヒョウモン

クガイソウ

 

盗掘対策を早く

 どんな山にも所有者があり、自分の所有でない限り「他人の山」である。しかし、「自然のものは自分のもの」と思い込んでいる人が意外に多いのではなかろうか。国有林野では場所によっては一定の方法で採取が許されているが、「盗掘」となると許された範囲を越えた文字通り犯罪行為である。特に下界では珍しい高山植物が狙われる。

 販売目的の盗掘も非常に懸念されている。高山植物など、採取が規制されていても売買などの流通が野放し状態であることも盗掘を助長する下地を作っている。こうした流通品については、盗掘ではなく育成したものとの反論もあり、遺伝子でも調べない限り採取箇所を特定したり盗掘自体を立証するのは困難である。しかし、種の採取自体が許されていないものについてはどう答えるのであろうか。

 いずれにしても、花を見て美しいと感じる心を持っている人が盗掘に手を染めている、または手を貸していることになっているのは実に残念なことである。花のためにも、花を愛する多くの人たちのためにも、売買の規制や違反者の氏名の公表など、強力かつ実効ある対策を期待したいものである。

 

高山草原の素顔

 福島を代表する名山である吾妻連峰。その頂稜部には美しい高層湿原や雪田植物群落などの高山草原が広がっている。どこまでも青い夏の空に白い雲が浮かび、さわやかな風がながれる緑の草原。思う存分歩き回ったり、寝ころんだりしたい。誰もがそう思うに違いない。

 だがちょっと待った。ここになんで木が生えていないのか考えてみてほしい。下界の草原らしきものを思い出してみると、家庭の庭や公園やゴルフ場の芝などはしょっちゅう刈り込んだり雑草退治していないと維持できない。農地だって耕作放棄されると原野になる。どっちにしても、やがて木が生えてきて、やがて林に戻っていく。しかし高山ではそんな管理は誰もやっていない。それなのに草原になっているのは、多量の雪や強風、低温など、木が生きられないほどの厳しい環境にさらされているからである。

 高山の草原地帯はだいたい6月頃までは雪が残っている。そして10月には雪がくる。このせいぜい3ヶ月の間に芽を出し、葉を広げ、花を咲かせ、実を結ばなければならない。雪が遅くまで残るところではこの期間はさらに短い。種子から始まり子孫を残して死ぬまで、1年限りの命ではこういう条件で命を繋いで行くのは困難である。だから高山植物は、地上部は冬には涸れるが地下茎は何年にも渉って生き続ける多年草がほとんどである。成長も遅い。一見似ていても、夏には1週間毎に草刈りをしないと草茫々になる下界のそれとは実は大違いなのである。

 こういうぎりぎりのところで生態系のバランスを保って成り立っている高山草原である。これに登山者の踏みつけなどの圧力が加わることは、植物個体ひいては植生全体にとって手痛いダメージとなる。下界の植物は一年草も多いため、踏みつけられて裸地化しても翌年にはまた回復が期待できる。しかし高山、亜高山では先の理由で一度枯れてしまうと翌年すぐに回復というわけにはいかない状況がある。人の踏み付けによるダメージが続くと、やがて回復力を失い、植物は死んで裸地化してしまう。さらに激しい風雨や流水によって表土が流され、岩盤が露出する。こうなると表土の移植でもしない限り、もはや人間の寿命程度のスパンでの回復は望めなくなる。そして傾斜が大きいほど植生が壊れ易く、また回復しにくい。

いろは沼

残雪の大凹付近(7月上旬)

 

U 花を楽しむ

観察(双眼鏡の活用)                           鈴木 勝美

 みなさんは双眼鏡があれば何に使おうと思いますか?山頂から遠くの風景を眺めたり山小屋で星を観察する、キャンプでバードウォッチングなどは一般的ですが花の観察にも有効に使えます。
 高い枝の先についた花でも観察できます、湿原では木道から離れたところに咲く花も湿原に入り込むマナー違反をせず、ぐっと引き寄せて目の前に見ることができます。 花の細かい観察にはルーペ(虫めがね)を使いますが手元に無いときにこんな使い方もできます。
 接眼部を花の直前に近づけ、逆の対物レンズのほうから目を20〜30cm離して見ると拡大して観察できます。雌しべ、雄しべ、花びらの模様など自然の芸術作品といえるようなミクロの世界も覗けるのです。
 小さな花一輪、葉一枚でも採ってしまったりせずその場でよく観察し、スケッチなどで記録にそして記憶に残しましょう。 山歩きに限らず近所の散歩でもポケットに忍ばせると新しい発見があるかもしれませんよ。
 購入時の参考に書き添えますが、カタログやチラシの宣伝に20倍、30倍拡大、なかには100倍なんてのもありますがぶれてしまうし暗くなりがちなので細かく観察するには不要でしょう。
 1台目に購入するなら6〜10倍の倍率で十分です、口径も20mmや25mmがポケットにも入れられ気軽に持ち歩けるのでお勧めです。(最近はぶれ止め機構がついたものもありますが価格がそれなりにします、懐の暖かい方はどうぞ。)

キンラン・RDB絶滅危惧U


デジタルカメラに残す山の思いで(その1)          山内 幹夫

 登山やハイキングに行って豊かな自然を目の当たりにする楽しみは、何物にも代え難い幸せですが、その余韻にひたるために、人々は写真を撮って来ます。街で生活していても、雪山連峰や高山植物、新緑のブナ林などの風景写真を見ると、しばし心が和みますね。

 写真を撮るにはカメラが必要ですが、どうしてもフィルムの枚数に限りがあるので、撮影シーンが限られ、軽い欲求不満におちいる場合もあるようです。懐具合をあまり気にせずに多くのカットを撮りたい、そんな夢のようなカメラがほしいと思ったことはありませんか。それがデジタルカメラ(通称デジカメ)なのです。すでに皆様はご存じでしょうが、コンパクトながら高性能な機種が多く、山に登る時も持ち運びに便利な優れものです。

 最近はデジカメの機能も向上して、普通のカメラに劣らない程の美しい写真が撮影でき、写真屋さんでも現像してもらえますし、パソコンとカラープリンターをお持ちならば、自分でプリントが可能です。なにしろ、1枚のメモリーカード(撮影した画像を記録するカードでいろいろなタイプがあります)で100枚から200枚もの撮影ができ、テクニックを覚えれば好みのタッチの写真も思いのままということで、楽しみも倍増します。

 

デジタルカメラに残す山の思いで(その2)           山内 幹夫

 デジタルカメラの原理は、フィルム式カメラと同じですが、レンズを通して結ばれた画像を電子信号に変えて、メモリーカードに記録するということだけが違います。なので、今までのカメラを使われていた方なら簡単に撮影できます。便利な点は、今撮影した画像がカメラの裏側にある液晶画面ですぐ確認できること、気に入らなければその画像をカメラ操作によって消去できることです。結果的には、いい写真だけ持ち帰れるのです。さらに自宅のテレビに専用コードで接続すれば、茶の間で大自然の上映会もできます。パソコンをお持ちであれば、簡単な絵葉書も作れますし、感動的な写真をEメールでお友達に送ることも、すてきな花の写真を拡大プリントして部屋に飾ることもできます。

 カメラやメモリーカードの種類、楽しみを増やす周辺機器については経験者に教えて頂くかご自分でお調べになるとして、簡単な注意事項を申し上げますと、まず、デジカメは手振れし易いのが弱点です。撮影の時はしっかりカメラを持ってシャッターを押して下さい。それから、高画質の写真にこだわりすぎて撮影画素数(写真の目の細かさで、多いほど画質が良いが撮れる枚数は減ります)をいきおい600万画素に上げる方もおられますが、普通にプリントするならば、200万画素程度で十分。その分数多く撮影した方がお得でしょう。その他は今までのカメラと大体同じですので、気軽に写真を楽しんで下さい。

 

V 花に迫る危機                                    戸村 憂

乱 獲

日本に生息する植物のうち、既に絶滅した種が25種、絶滅が危惧される種が1655種(平成12年8月)ある。原因は色々考えられるが、様々な人間活動による環境変化等に加え、鑑賞目的の乱獲があるという。

例えば、特徴的な姿が美しいサギ草はかつては全国的に珍しいものではなかったというが、開発で生息環境が奪われ、加えてその美しい姿故に採集の対象となり、残念ながら今では絶滅が危惧される種になってしまった。

 自分は採ったりしてないから関係ないと思っても、何気なくお店で鉢植えを買うことが、結果的に絶滅に手を貸すことになってしまうという見方もある。

一部で栽培の努力は成されてはいるようであるが、栽培品と山採り品の区別もつかず、山採り品の流通に有効な規制もないため、販売目的の乱獲、盗掘を許してしまう構図があるという。

レンゲショウマ

庭園化

危機というのはオーバーかもしれないが、自然の山林に園芸種を植えたり、石やコンクリート等を組み合わせた立派な遊歩道が整備されたりと、かなり人工的な整備の手が加えられてきているところも多い。また、濡れたり汚れたりすることがきらわれるためか、かなりの幅で山道が刈り払いされ、肝心の植物がきれいさっぱり刈り払われてしまったりしていることもある。

これらの整備の是非については賛否両論出てくると思われるが、伐採後に自然に生えてくる植生も含めて本来の自然とすれば、これを尊重し楽しむ立場からは、ちょっと自然を改変しすぎなので、ということなると思う。

一方で、安全に、快適にという考え方での整備もあるが、人間の都合に自然を合わせるという考え方での整備も、度を過ぎると本来の自然の良さをスポイルすることになりかねないと思われる。

踏み荒らし

吾妻連峰など、亜高山帯の稜線には美しい高層湿原や雪田植物群落などの高山草原が広がっている。見た目は下界の草原と変わらないように見えるが、実は多量の雪や強風、低温など、森林が育たないほどの厳しい環境にさらされているため草原になっているのである。

高山の草原地帯は雪の無いのはざっと3ヶ月の間であり、植物の成長量も小さい。このため、登山者の踏みつけは植物にとって手痛いダメージとなる。踏みつけが続くと、回復が困難になり植物は死んで裸地化してしまう。前述のようにすぐに植物は回復しないから、風雨や流水によって表土が流され、岩盤が露出する。こうなると表土の移植でもしない限り、もはや年単位での回復は望めなくなる。

高山や亜高山でよく見かける数メートルやところによっては十メートル以上にも渡る登山道の裸地化の広がりや浸食は、元々は一筋の山道から始まったことを思うと、踏みつけの問題は深刻である。

開 発

 絶滅または絶滅が危惧されることになってしまった原因の4割以上を占めるのが、森林伐採や草地、湿地の開発、道路工事などの開発である。特に、バブル期には全国でスキー場、ゴルフ場の開発に伴う大規模な伐採や造成が目白押しだったことは記憶に新しい。

 これらは自然を改変する面積も大きく、生態系に大きな影響を及ぼすだろうことは誰が見ても明らかである。そこに施設が作られたり、ゴルフ場の芝のように別の植物に置き換えられてしまえば、元の自然は永久に戻ってこない。

  バブルは去り、一般論として自然環境の大切さは叫ばれてはいるものの、その一方ではあいかわらず市場で売り買いにならないもの(=個々の自然環境)は役に立たないものとして取り扱われている現実がある。森や林が農地や宅地として有効利用できる平地にはほとんど残っていないことがその証明である。経済活動に利用できないものは無駄とする考え方を改めない限り危機は続く。

山スキーコース整備

 

W 自然との触れ合い                                戸村 憂

踏まないで

意識すればできる、草花に対するちょっとした気遣いの一つが、彼ら彼女らを「踏まない」ようにすることである。「登山道からはみ出さない」とはよく言われるが、そもそも登山道自体が広がる傾向にある。必要なのは、道の真ん中を歩く、必要(肩幅程度で十分)以上に道を広げないということである。これは、特に草原や湿原など、人の踏みつけに弱い植生に言えることである。

このため、滑って転ばないよう慎重な歩行や、汚れてもいいように長めのスパッツを着けるなど、足廻りの工夫がいる。この点長靴は便利で、岩場を別にすれば、東北のような「土の山」に適している。

山で靴やスパッツを汚すのを極端に嫌ってか、植物の上を渡り歩いている登山者をときどき見かける。だいたい、山は「歩行者天国」ではないのだから泥んこになってあたりまえだし、登山靴やスパッツの汚れは家に帰って洗えば済むのに、とは考えられないものだろうか。

触ることを楽しんで

藪がうるさいと登山者から苦情が行くせいだろうか、最近の山道はきれいに刈り払いされていることが多い。両手を広げても草木に触らないところも少なくないし、稜線の潅木体など、生け垣のように整然と刈り払われているところもある。遠くから眺めると山の傷にも見える。

これはエンジン刈払機が普及してからのようで、以前は地面が見えないような道をがさごそと歩くのがむしろ普通だったように思われる。さらにこの背景には、自然とのふれあい方が「山頂で眺めが良ければOK」というような視覚中心に偏ってしまい、登山者が「植物に触る」ことを嫌っていることがあるように考えられる。

東北の樹林帯の場合ササの繁茂が歩行の障害となり、この点では最小限の刈り払いは必要で、そのおかげで安全に歩ける。しかし、潅木帯や高山草原の刈り払いは、歩行による圧迫と成長量等のバランスで考えるべきで、むしろ私達がカサコソと「触れながら」歩くことを楽しむようになれば、無益な殺生も、労力も減らせるというものである。

オオバクロモジ

 

登山道のこと@

 

 私たちは山に登り、素晴らしい景色と美しい花々に出合い、苦労して登ってきて来て良かったと思う。しかし、感動の一方で案外忘れがちなのが、私たちが歩くこと自体が与えている自然へのインパクトである。

 お花畑に続く登山道は、当たり前の話だが元々はお花畑だったところが人の踏みつけで草花が無くなってしまったものである。そしてこの登山道自体がどんどん広がる傾向にある。それは、私たち登山者が泥濘や石ころを避け、歩きやすい植物の上を歩くためである。

 これを避けるためには、多少歩きにくいのは我慢して道の真ん中を歩き、必要以上に道を広げないということである(肩幅程度で十分)。

 このためには捻挫や転倒の無いよう慎重に歩くことや、スパッツを着けるなど足廻りの工夫が必要となる。壊れた自然が回復するのには気の遠くなるような時間が必要だが、靴やスパッツの汚れは後で洗えば数分で元に戻る。登山道は街の歩道とはそもそも違うことを肝に銘じ、花壇の中を歩くような注意と気配りをもって自然を楽しみたいものである。

刈り払いで広がる登山道

 

登山道のことA

 藪がうるさいと苦情があるためか、最近の登山道は両手を広げても草木に触らないほど幅広く刈り払われているところも少なくない。稜線の潅木地帯では生垣のように刈り払われているところもある。遠くから眺めると山の傷にも見えるし、裸地化による浸食の拡大も懸念される。

 このような現象はエンジン刈払機が普及してからのようで、以前は地面が見えないような道をがさごそと歩くのがむしろ普通だった。さらにその背景には、自然とのふれあい方が「山頂で眺めが良ければOK」というような「視覚中心」に偏ってしまい、「植物に触る」ことが嫌われる傾向があるようだ。

ササが繁茂する場所では、通行するための最小限の刈り払いは避けられない。しかし潅木帯や高山草原においては、人間の通過による負荷と植物の成長バランスからすれば、人間が多少我慢することで刈り払いは避けられる。私達がカサコソと「五感で歩く」ことを楽しむようになれば、労力も減らせるし、自然に付ける傷も小さくて済むと思うのだが。

チェーンソーによる登山道整備

 

ストックのこと

 山を歩いていて最近気になるのが、道の両端が小さな穴だらけになっていることである。急な坂道で道の縁に辛うじてへばりついている植物を「ほぐして」しまっていることを見たこともある。

 犯人はここ数年で急速に普及した杖として使うストックである。実験したわけではないので言いがかりになるかもしれないが、せっかく固まっている登山道の路面や、縁に生えている植物をざくざくにほぐし、ただでさえ洗掘が進みやすい登山道の浸食に拍車をかけることにはならないかと心配である。

  とはいっても、実際使ってみると、特に下りでは「杖」の効果は高く、歩きやすい。膝関節の保護にもなるという。それでも、利便性しか考えずに所構わず使うのはいかがなものかと思う。

同じストックでも、先端にゴムが被せてあるものはインパクトが少ないと思われる。ついでにいうと、先端のゴムがキツネやタヌキの足形のものがあれば、インパクトはより少ないと思われる。

オーバーユースのこと

 日本は世界で最も人口密度の高い国のひとつである。そのような狭い国土の特定の有名な山々に、百名山ブームも手伝ってか登山者が集中している現状があり、人の入れ込みによる屎尿による汚染や踏み荒らし、野生動物への影響などが問題となっている。

  人間が自然に踏み込ば自然環境に影響が出るのは当然である。それが最小限かつ一定程度で安定的に推移すれば、保護と利用のバランス上やむを得ない利用の範囲としよう。ところが、自然の状況が悪化していくのであれば、それは自然の回復力のキャパシティを超えているということであり、問題となる。

対策としては歩道やトイレの整備など、ハード面での対応もあるが、整備が進んで便利になれば来訪者が増え、さらに整備を要するという悪循環に陥る可能性が高い。高山や湿原のような繊細な自然においては、アクセスを不便にする、入山前のビジターセンターのレクチャーを必修にするといった思い切った対策が必要な時期に来ているのではないかと思う。

花回廊取材余話          山岳に侵入する帰化植物      佐藤 守

日本では、帰化植物を、明治以降に意識的、偶発的を問わず「人間によって」渡来した外国を自生地とする植物と定義している。帰化植物は、繁殖力が強く在来種を駆逐してしまう場合も多い。特に河川流域では、セイタカアワダチソウやコセンダングサなどの帰化植物により河原を自生地としてきた在来種が駆逐され、絶滅危惧種化しているケースが全国的に広がっている。河原でのお花畑造成により深刻度が更に増しているという。

奥羽山脈では、オオハンゴンソウが既にどの路傍でも見ることができる帰化植物として定着しているが、他にもフランスギク、セイヨウミヤコグサ(吾妻スカイライン)、セイヨウタンポポ(浄土平他)、コウリンタンポポ(鬼面山の旧峠周辺)、キクイモ(高土山)などの帰化植物の花が確認されている。しかし、幸いというべきか、森林ではこれらの帰化植物を見ることは今のところ無い。これは、帰化植物は撹乱依存植物がほとんどで、土壌の撹乱と良好な光環境を要求するのに対し、林の木立とリタ−(落葉と落枝)が光環境を遮断し、帰化植物の生育を阻止しているためである。しかし、草原や湿原など林が途切れるところでは、登山靴等に着いてきた種から帰化植物が侵入する可能性もあるので注意が必要である。

森林伐採は、撹乱と光環境を提供し、山深く入り込んでいるスキー場、ゴルフ場での「お花畑」造成は撹乱と富栄養化に加え帰化植物のシードバンク化をもたらし、自生種の生育不適環境を整備する。特にイネ科植物はこれらの施設に容易に侵入する。オーストラリアでは駆除すべき帰化植物を「指定植物」として法制度を整備して対策を講じている。日本でも帰化植物対策のための法整備が望まれる。

オオハンゴンソウ

 

 

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