16 奥田 博

スベトラーナ・アレクシェービッチ未来の物語「チェルノブイリの祈り」(松本妙子訳・岩波文庫)

 

 

 スベトラーナ・アレクシェービッチという作家が「チェルノブイリの祈り」という本を、チェルノブイリ原発事故から10年後に発表したことを私は知らなかった。日本語訳が1999年に出たことも、震災後2011年6月に文庫本になったことも知らなかった。今年、ノーベル文学賞にスベトラーナ・アレクシェービッチの「チェルノブイリの祈り」が選ばれて初めて知ったのだった。チェルノブイリ原発が爆発したのは、1986年4月26日午前1時23分58秒のこと。今年4月で30年が経つ。
この本は、チェルノブイリ周辺に住んでいた人々の様々な声の聞き取り集なのだ。事故当時の模様は断片的にしか報道されていない。当時の共産党体制下では、ヒタ隠しにされ、抹殺され、フィルムは燃やされ、紙に書いたものまで燃やされていた。人々の口を封じ、また人々は悍ましい記憶を思い出したくないために口を閉じた。
そんな状況下で、著者の彼女は、ひたすら人々の話を聞き、あるいは重い口を開けさせ話させた。
これは文学ではないという人もいるだろう。事故から10年という時間を経ても、人々の口から語られる言葉は重く悲しく、心を打つ。私がフクシマ人だからではなく、多くの人々が心を打たれるに違いない。残念なのは、この本が警鐘した悲劇をまた繰り返したこと。そして為政者は、事故からたった4年で原発を再稼働したこと。
読み進めても、進まない箇所が現れて、ページをめくれない時間が、何度かあった。つい4年前にあった事例を思い出してしまうからだ。
『学者も技師も軍人も誰一人として罪を認めようとしません』=>フクシマでも、学者は「何でもない」といい、東電は責任を取らず、推進役だった政府や役人は本質に迫ろうとしない。
『線量計を持った軍人にばあさんが「うちはどうか?」と問うと「軍事秘密なんだよ」と答え「あんたのところは正常だよ」とうそぶく』=>事故直後、何も知らされない飯館・長泥で放射能測定車の周りを子供が興味深げに、うろうろしている映像を思い出す。
『チェルノブイリは第三次世界大戦なのです。(中略)国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切です』
『ここでは過去の体験はまったく役に立たない。チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えていたことがないからです。不意打ちを食らったのです』
紙面がなくなった。私には表現力が無いが、一読をすすめる一冊だ。重い重すぎる一冊だが、特にフクシマ人には心に響く一冊、ノーベル平和賞がふさわしい一冊に思えた。
 最後に翻訳の松本妙子が文庫版「訳者あとがき」(発行はフクシマ事故後2011年6月16日)で終わります。
『わたしたちはチェルノブイリからなにを学んできたのだろう。そして、いまカタカナで書かれることになった「フクシマ」から、次の世代のためになにを学ぼうとしているのだろう。人間が他者を思いやる心を信じたい、人類の良心と叡智が信じるに値するものであってほしいと、心から強く願う』
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本書の著者アレクシエービッチ氏(1948-)はベラルーシに住む作家。日本語訳になった彼女の作品は『チェルノブイリの祈り』に加えて『アフガン帰還兵の証言』(日本経済新聞)、独ソ戦の証言集『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争-白ロシアの子どもたちのみた戦争』『死に魅入られた人びと』(群像社)の5冊。戦争が民衆をいかに傷つけたかを克明に描き出している。(肖像、ウィキペディアより)